和田堀公園・善福寺川緑地へ行くのに、「大宮八幡宮」の境内を抜けて行った。

本来なら、せっかくなので参拝してから、行こうと思うも、大宮八幡宮はどうも「子育て・安産」にご利益があるようなので、オイラには全く関係ないし、何せ財布を忘れ一文無しの身。(苦笑)
なのでお参りはせずに、素通りに…。
正面の鳥居を入り、そのまま本殿の手前を右に折れると北神門がある。
そこを出ればもう目の前に善福寺川が流れている。
その「北神門」の手前に何やら不揃いの大きな石が並べられていた。

案内板を見ると「力石(ちからいし)」だそうだ。
昔は、相撲とともに力自慢を競うのに大きな石を持ち上げていた。
江戸時代以前からあったのではなかろうか?
ここに奉納されているものは明治・大正時代のものらしい。
一番大きなものが下掲のもので五十貫(187キログラム)だそうだ。

ちなみに「大宮八幡宮」は、平安時代末期、奥州の乱の鎮圧を命じられた源頼義がこの地を通りかかった際、大空に白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景に見え、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と験担ぎ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓い、出陣したところ、無事に奥州を平定、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただき神社を建てたことが由来。
そして「北神門」を抜けると結構な高低差があり、眼下を善福寺川が流れている。

地形的に川は最も低い位置を流れるものだが、この高低差は「ワケあり」なのです。
この大宮八幡宮のある位置は神社以前は古墳で、おそらく弥生時代に人工的に土が盛られたものでしょう。
ここは「大宮遺跡」と命名されています。


案内板には、
「昭和44年(1969)7月から8月にかけて杉並区教育委員会が実施した発掘調査によって、弥生時代終末期の方形周溝墓3基が近接して発見されました。
西側から第一号基、第三号基、第二号基と名付けられました。
第一号基の主体部から軟玉製の勾玉1個とガラス小玉12個、周溝中から底部穿孔の弥生式土器10個体、第三号基の周溝中からは弥生式土器2個体がそれぞれ出土しました。
本遺跡で発掘調査された方形周溝墓群は、都区内で初めての発見の事例であり、方形周溝墓の主体部から豊富な玉類が出土したこと、主体部上に封土が認められてことは、同時代の墓制を研究する上でも極めて学術的価値が高いものとして注目されています。」
と記されています。
これを記すと、ちょっと長くなってしまうので、今回番外編ということで。