3/21に日本でも発売となった最新アルバム『レッキング・ボール』を聴き終えたときに心で呟いた言葉だった。

ブルース・スプリングスティーンは1973年のデビュー以来一貫してアメリカ庶民の悲喜交々を時に力強いメッセージとして、時に文学的なリリックの歌詞を、ロックンロールやフォーク・ロック調のサウンドに乗せて歌ってきた。
その視点は決してぶれず、アメリカ人はみな「ボス」と呼ぶ。
彼が世に出て行く出世作となった1975年作品『明日なき暴走』、そして世界中が彼の存在を知ることとなる名作『ボーン・イン・ザ・U.S.A』あたりには思い入れを持つ方も多いだろう。
私も紛れも無くその中の一人だ。
しかし、ここ何年かこの“ボス”の新作を実は聴いていなかった…。
なので、もう何作ぶりかで新作を聴いた。
『明日なき暴走』ではまだ若い同世代の者のやり場の無い感情をぶつける気持ち、『ボーン・イン・ザ・U.S.A』ではアメリカが犯した間違いであるベトナム戦争帰還兵の苦悩を歌った。
この『レッキング・ボール』ではリーマン・ショックなどの世界的不況で家や職を奪う社会に怒りを込めて歌い上げている!
「これは俺がこれまで作った中でも最も直接的なレコードだ。長い間、誰も説明責任を負おうとしていない。みんなが家を失いそうになっているというのに、誰もそのことで咎められていない。ウォール街占拠が起きるまでは、アメリカの最も大切な部分、アメリカの歴史や共同体の感覚を攻撃するような盗人行為に対して、誰も抵抗していなかった。俺の音楽は…アメリカの現実とアメリカン・ドリームの間の距離を見定めようとするものなんだ。(新しいアルバムのタイトル『レッキング・ボール』が意味するのは)この30年の間に、ぺしゃんこに潰されたアメリカの理想や価値観だ。」 by ブルース・スプリングスティーン
この声明の通り歌詞には怒りや失望、何とか生きようとする人々の気持ちが綴られている。
アメリカ人の(アメリカ国やアメリカ政府でなく)正義が潰され行く場面と、それでもその正義を糧に生き延びようとする人々の心情ばかりが歌われている。
サウンドは、『明日なき~』や『ボーン・イン~』のようなロック色よりも、アメリカのルーツ・ミュージックに近い。
重い、厳しい歌詞が多いが、フィドルやマンドリンなどを多様している印象で、西部劇の時代のアメリカ、もしくはアイリッシュ系のトラッド・フォークっぽいサウンドでリズムや明るさのあるサウンドだ。
アルバムを聴いていてグッと来たのは、5曲目の“デス・トゥ・マイ・ホームタウン”から6曲目“ディス・デプレッション”、そして7曲目のタイトル曲“レッキング・ボール”と続く中盤だった。
“デス・トゥ・マイ・ホームタウン”では、
♪大砲の弾が飛んだわけではない/ライフルが俺たちを打ち倒したわけでもない/爆弾が空から落ちてきたわけでもない/血が大地に流れたわけでもない/~奴らは俺のホームタウンに死をもたらした/奴らは俺のホームタウンに死をもたらした/~権力を握ってる盗人たちを地獄へ送るんだ/欲張りな盗人たちがやってきて見つけた肉を全て食い尽くした/それでも奴らは罰せられず表通りを闊歩している~
とあからさまにエコノミック・アニマルを批判。
続く“ディス・デプレッション”は一転しスローで切ないナンバーで、
♪今までにも落ち込んだことはある/でも、こんなに落ち込んだことはない/今までにも途方に暮れたことはある/でもこんなに途方に暮れたことはない/~今までにも困ったことはある/でもこんなに困ったことはない/~告白する、お願いだ/お前の思いやりが必要なんだ/こんな不況の中/お前の思いやりが必要なんだ~
と疲弊し困窮した男の切なる弱弱しい本音が綴られていく。
そしてタイトル曲の“レッキング・ボール”(レッキング・ボールはビルを解体する大きな鉄球のこと)では、
♪お前の鉄球を下してみろ/お前の鉄球を下してみろ/~怒りを持ち続けろ/怒りを持ち続けろ/怖気づくな/この巨大な建物も数々の物語もいずれは朽ち果てる/俺たちの若さも美しさも塵に塗れてしまう/試合が終わるときには~
と人々の生活を破壊するものに対してそれを破壊する怒りを持てと叫んでいる。
(歌詞をちゃんと読んで聴く洋楽自体今や珍しいかも知れない。)
恥ずかしながら自分も、これらの曲に登場するような、日々どうしていいか迷い続けて過ごしている一人。
だからこそ今回のボスの歌は身に染みる。
62歳にして、社会を正々堂々と批判し、アメリカ庶民の正義の火を消さずに広げようとしている。
「やっぱ、ブルース・スプリングスティーンは凄ぇや!」
ps)タイトル曲「レッキング・ボール」では盟友Eストリート・バンドの顔であった故クラレンズ・クレモンスの最後のサックスが聴けます。