昨日(書いてるうちに日が明けた…つまり29日)、「さだまさしアコースティックコンサート」(編成は、本人がVo、ギター、ヴァイオリン、あとマリンバとパーカッションを一人が担当し、他にギター、ピアノ&キーボードの計4名)なるものを観に行った。
さだまさし氏の詞は、時に優しく、時に恥ずかしくて直視できない場合もあるので、聴く時に自分がどんな心持ちの状態かで素直に自分の中に入ってくるかどうかが微妙ではある世界です。
ただ、色々なアプローチの詞、いくつも小説、エッセイを出版し、トークは軽妙、etc…、この人は「言葉の魔術師」だと思う。
偶然昨日の『読売新聞』の「編集手帳」とういうコーナー(朝日では「天声人語」と言われてる朝刊の下段にある職員のコラム)でさだまさしの「転宅」という歌の詞が引用され、自身の人生を安易に終わらせたり、人の人生を簡単に奪ったりする前にもうちょっと頑張ってみないか、というような事が書かれたらしい。
この事をステージ上のトークで話していた。
さだ氏の父親の人生の浮き沈み(それに伴う、何度か引越ししなければならなかった実話)の歌である。
その中で歌詞に「人生は潮の満ち干き/来たかと思えばまた逃げていく/失くしたかと思えばまた何時の間にか戻る…」とあるけど、まさにその通りで、つらい時ももうちょっと頑張ってみよう、と思えば何かが変わる、みたいな事を言っていた。
「ほんとそうだよなぁ」と思う自分が5割。
「つまり、何やったって駄目なのが半分ってことだろ…」と思う自分が5割。
単純なくせに素直になれない自分がいる。
ポジティブに生きることが良いに決まってる。
でも、現実はネガティブなことが多い。
それをも乗り越えた先にきっと「何かいいこと」があるのだろうと、頭ではわかっているが、行動が伴わない。
そして、自己嫌悪に陥る。
つまらない事が突然気になって煮詰まる自分がいる。
そんな自分とどうやって付き合ったらいいのか解らなくなる。
でも、深度は違うにしろ、悩んでいる人がいるとやはり「頑張って」と言ってしまう。
自分は駄目でも他の人は「駄目じゃないよ」と言ってあげたい。
矛盾しているなぁ…。
人生は潮の満ち干き…?
自然破壊でその満ち干きさえ狂いそうな現代。
その現代では、すでに人生の破壊がはじまってるから、新聞が取り上げたのではないか…?
辛い日々を過ごしている方々も、もうちょっと頑張らないといけないのはいつの時代も、なのでしょうね…。