現実と理想の違い | 「薬」を持たない生活。

「薬」を持たない生活。

自宅に生えている雑草が美味しい♪

 

 

 

 

 

 

 

 

「医療従事者でもないのに、色々アドバイスしたり、

コメントしてくる人っていますよね。

あれ、悪気はない、どころか、

凄い親切心で言っているんだろうけど、

不快になることが少なくないです。

「痛みは精神的なものからくることが多い」とか、

あんた、それ、もう百も承知というか、ね。」

 

(注:わたしが書いた文ではない)


 

 

人によって受け止め方は違い

 

気持ちがわかるだけに

 

痛みに耐えながら 暮らす毎日

 

更新がストップするのは

 

痛みが強いからだろう

 

 

そんな中で 発信する言葉に

 

わたしたちはなにを言えるだろうか

 

じゅうぶんに頑張っているのだから

 

 

頑張っているのに

 

これ以上 何を頑張れというのか

 

そう思ったことは 何度もあった…

 

 

励ましてくれているのだと わかっても

 

逆に相手を追い詰めることもある

 

痛みを解消してくれる言葉として

 

受け入れられないのだから

 

 

 

 

先日 ヤギの塩のことで

 

腑に落ちる というか

 

自分の愛のなさに気づかされた

 

 

ヤギの症状の改善に

 

これまでの岩塩を止め 獣医に精製塩を与えられ

 

草に混ぜたり 水に溶かしたりと奮闘するも

 

ヤギはそれを好まず…

 

 

最後に 盛り塩のようにして

 

ようやく舐めてくれたとか

 

 

塩で考えれば 海水を薄めるとか

 

海水塩を与えたら良いのにと思うのに

 

 

飼い主は「塩を固める」

 

という発想に行きつく

 

この 愛情の深さに 驚く

 

 

同時に 自分の心の狭さに ガックリ

 

よい塩 悪い塩と判断するのではないと知る

 

 

 

わたしの場合 犬にはちみつを与えて

 

他人から見ると 余計なことをしている

 

と思われるかもしれない

 

 

だが 追い込まれた状況の中で

 

わたしの判断は「はちみつ」だった

 

 

意識の中で受け止めていた

 

そこに 良いも 悪いも なにもなくて

 

 

愛犬のためにどうすればいいのか

 

ただそれだけであって そこに愛がなければ

 

そうした行動もなかっただろう

 

 

立場が逆転すると このわたしでさえ

 

良い 悪い と判断してしまう自分に

 

まだまだ甘いなあと思った

 

 

 

昔 料理に 精製塩を使っていた

 

それが普通だと思っていた

 

味に関しては 塩梅を気にするくらいだった

 

 

摂り過ぎると からだに支障が出た

 

健康という意識には欠けていたが

 

次男のアトピー治療をきっかけに

 

食べ物に気を付けるようになった

 

 

 

薬は減ることはなかった だが

 

病弱だった子供は 引っ越しをきっかけに

 

病院から離れ 薬も止めた

 

 

薬漬けで 病弱になっていたのだと

 

後になって気づかされた

 

 

もちろん 無農薬 無添加の食事を与えても

 

劇的に症状がよくなるわけではない

 

その間も 薬や治療を受けていたのだから

 

 

病院に通えば通うほど 病は治らず

 

悪化するばかりだった

 

 

子どもと自分の体験もあって

 

 

上の赤文字の言葉の意味

 

わかるのではないかな

 

 

 

 

いくら聖書の知識が豊富であっても

 

神様への 愛情が なければ

 

それもまた 信仰というより

 

形だけの信仰生活になる

 

 

人の心を無視しながら

 

集団という枠におさまる

 

 

基本的なことは 信仰者であれば

 

誰でも知っていること

 

 

否定とか それをしてはいけない とか

 

人間の思考 行動を制限する

 

 

人間の考えを押し付けていないか

 

否定する言葉を排除する

 

 

そこに わたしが 反応したんですね

 

 

 

 

 

 

 

果物はたくさん生ると生理落下と言って、

自分を守るために実を落としちゃうらしい
去年も木がまだ若いから大半が落ちてしまった

 

 

それで 昨年 小さい青梅が落下したんだ…

 

 

 

人間は自分(集団)を守るために

 

人を蹴落としてしまうのだろうか