育ちの良さみたいなものを定義するとすれば、それは人格と習慣(立ち振る舞いやコミュニケーションの原理原則)から成り立っている気がします。今日は、人格について考えます。

 

人格が円満な人は、何かとゆとりがある人たちでした。「我」ではなく「他」、「極端」ではなく「中間」、「ダーク/卑怯/計算高い/狡猾」ではなく「まっとう」な考え、「権威」ではなく「自分のものさし」を持っている人たちです。具体的には、他人の良いところを見つけるのがうまかったり、考えた方が極端に何かへ寄っていなかったり、見返りを求めないGiveする精神、姑息な手段を使わない等です。彼/彼女らの話を聞いていると、その形成過程には次のような特徴があったように思います。

 

円満な人格=①出会ってきた人の”良質さ”×②「アットホーム/にこやかな環境」×③「満ち足りている」

 

①「良質さ」とは、「粗野な人」や「ダークな世界の人」が少ない世界を指します。学校や会社の同僚だけでなく、育った住宅のエリアやご家族を含めて関わる時間の長い人に自分の人格は寄っていくのだと思います。所属していたコミュニティーの中で、荒っぽかったり倫理を欠如している人はいたらしいのですが、それはごく一部であったとも言えそうです。また、その荒れたレベル感もそれほどではない気がします。

 

②「アットホーム/にこやかな環境」の反対を考えます。「1つしかないポジションを争う」とか「ヒエラルキー的な評価基準、明確に順位付けされて競争心を煽られる」、「生き残りをかけた戦い」etc.は時として狭い視野、偏った人格、他人を出し抜いたり、自分が優位でないと気が済まない等の性格を生み出すのかもしれません。

 

③「満ち足りている」の反対を考えます。「ものやお金、何かが足りない!!!」という状況は強烈な向上心のようなものを呼び起こします。一方、ややもすればこのダークな感情は、場合によっては人格に歪みを生み出す。極端にお金に厳しかったり、他人のものを羨ましいと感じたりする気持ちです。

 

短所は長所の裏返し。僕のストイックな性格が完全に裏目に出ている。僕は人格すら生まれに逆らえないのかと思いました。自分の生まれた世界に留まっていれば、”円満”な人格になったのかもしれない。もしくは、元から社会関係資本/文化資本/経済資本に恵まれた環境に生まれた(例えば、ボーディングスクール育ちの子)場合、往々にして人格は円満でした。(例外として、放蕩する人や努力しない人もいましたが・・・)住んでいる世界、つまり社会階層を変えようと思えば、関わる人を選ばないといけないし、他人に全く理解されない状況で物事をすすめる必要がある。その過程で、どうしても人格は歪む。

 

実際、ベンチャー企業の創業者(もしくはその子会社経営を若くして任されている人)を僕は何人か存じ上げているのですが、果てしなき向上心というかギラギラ感と引き換えに、ものすごく人格が何かに向かって極端な方が多い気がします。高尚な人格を持って神輿を担がれるのとは違うような気がします。もちろん、そうじゃない方も知っておりますが、今のポジションに至るまでの過程で変化したのか、最初から同じ性格だったのかはわかりません。正直、人格の円満さが大切なのはわかるのですが、「その円満さを磨くこと」と「向上心のようなもの、特に階層を移動している途中のケース」は両立しえるのか・・・とも思いました。