プレジデント 7月4日(月)に、橋下徹氏が「英国民のEU『離脱』選択はポピュリズムなのか? 僕が現地で感じたこと」http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160704-00018400-president-bus_all
との記事を書いている。

最近のこのブログでも、“衆愚”という言葉が出てくるが、この言葉はいわゆる善良な人々への攻撃性がある。つまり、政治家は、内心では使いたい言葉かもしれないが、それが人々にわかれば、マイナスのイメージとなる。

つまり、政治家が人々を“衆愚”呼ばわりしたら政治生命にかかわる。

話しが少しずれてしまうが、STAP騒動の時にも、学歴ある小保方氏をコテンパンにけなして、
「彼女のような人は、科学者であると言えない」
「本物の科学者なら、彼女を認めない!」
とか言う人がいて、小保方氏をエセ科学者呼ばわりした。
こうした攻撃法も、政治家の“衆愚”呼ばわりに似ている。
思慮の浅い、上から目線でけなすという手法である。

元にもどるが、今日本のマスコミ関連で、良く使われてきている“ポピュリズム”という言葉は、“衆愚”呼ばわりと似ている。

 “衆愚”は、いかにも人を馬鹿にした言葉であるが、今、使われているポピュリズムという言葉も同じような使われた方だ。
しかし、日本人にとってはまだなじみの薄い英語であるためか、攻撃性は薄くなる印象がある。

しかし、“ポピュリズム”は、知識の無い人、浅はかな判断しかできない人たちの集団と言っている気がする。

橋下徹氏の書いた文章は、一般人への啓発というより、“衆愚”に対する説教という感じがする。

元々、彼は政治の仕組みを変えたい志向が強い人であり、新しい仕組みへ改変して君臨する思考が強いのだろう。だから、いろいろな政治的な改編案を披露する。

橋下氏は、英国では、ポピュリズムと言う言葉は使われていないと言っているが、母国語と外国語の言葉の使い分けは、全く異なる。
日本の“ポピュリズム”は、マスコミの使い始めた言葉にすぎず、英国では、自国の言葉の使い方がある。
つまり、橋下氏が、“ポピュリズム”とは英国では言わないなどと言っても無意味だ。

自国語と、外国語では、言葉の意味を超えたギャップが大きい。

例えば、someと言う単語にしても、日本語訳は“いくらか”であり、辞書では、数の場合はa fewとmanyの中間, 量・程度ではa littleとmuchの中間と書かれている。
しかし、実際には相当なとか、膨大なというニュアンスで使われたりする。
母国語は、熟知した言葉として、どんどん変化した使われ方になるのだ。

橋下氏のこの記事の文章は、上から目線の解説と感じる。

こうした文章は、“衆愚”を刺激し、反発があることを政治家は知るべきである。

舛添氏を辞職させたのは、こうした不遜な言葉を、彼自身が気づかずして吐いてしまったからではないのだろうか?

つまり、政治家がリーダーを気取り、謙虚さを欠く態度になるのは、得策ではないのだ。

「知らないなら、教えてあげるね!」ではなく、「知らないだろうから、教えてやる!」というニュアンスになるのだ。東京人、大阪人を問わず、こうした“衆愚”的な扱われ方に反発する。つまり、選挙の票につながらない。

橋下徹氏のような人は、リーダーたる自意識がかなり高いだろうから、そうした自意識が文章のそこここにでてしまうのだ。

橋下氏は、反発を買うような言葉をあえて使うことで、自らの指導性をアピールしたいのだろうが、橋下氏の自意識過剰と攻撃性は、以下の青字の文章に如実に出ている。

橋下氏は、以下のように、既存の権力者を、こき下ろしている。
「離脱は感情的、ポピュリズムの判断だ! という今の日本の自称インテリの思考こそ駆逐しなければならない。」

橋下氏は、大衆がインテリを好まないことを知っている。だから、インテリ層を批判することが、政治的アピールにつながると思っている。インテリ層を見下す橋下氏は、ご自身がさらなるインテリであると言っているだけなのだが・・・・。

特に、橋下氏の文章(以下青字)の中でも、特に攻撃的な部分には赤字で記載しておくことにする。

離脱という判断はポピュリズムだ!!感情的だ!!と言われたら頭に来るね。さらに企業活動がおかしくなって経済が停滞すると言われても、経済だけを考えるな、バカ、と言い返すだろうね。なぜ離脱なのか、冷静に論理的にいくらでも主張できる。東アジア共同体構想のおかしいところをいくらでも指摘できるし、東アジア共同体残留派を論破できる自信がある。

  しかし官僚や政府の予測が外れるなんて日常茶飯事。そう言えば、つい最近では、消費税を8%に上げても日本の経済には何の影響もないと言い続けていた財務省の予測が、まったく外れたことは記憶に新しい。

国民投票自体をポピュリズムだと批判する声も、当のイギリスでは聞かない。ポピュリズムという言葉を多用するのは、日本くらいで、まだまだ民主主義が成熟していない証拠。


前回ブログで、ITmedia ビジネスオンラインというネット記事を紹介した。
ここでは、“衆愚”という言葉がキーポイントであるが、窪田順生記者は、“衆愚”に“私たち”という言葉をつなげている。

記者が“衆愚”を使う時、この言葉の持つ攻撃性を避けるために、“私たち”とつなげて、みんな一緒とのイメージづくりで逃げているのである。

確かに“衆愚”は、愚が入っているので相手をバカにした言葉である。この記事は、公明党のことを書いているので、微妙な問題にならぬようにとの配慮かもしれない。

上の人から頼まれると、“衆愚”は目先の利益でうごいてしまうのである。

しかし、誰でも、他人から “衆愚”と言われる人になりたくない。

枯れ木も山のにぎわい
とか、
末席を汚す
とか、
自らをへりくだる言葉は、いろいろあるが、やはり、“衆愚”はさみしい言葉であると思う。

今回、英国のEU離脱も、大変な決定がなされてしまった。
“衆愚”が目先の利益を期待し、多くの人が職を失ってしまうという懸念がでているようだ。

すべての世代が得になるような経済政策は無い。若年対熟年の対立が、混乱の多い世の中になっていきそうだ。
今後、英国の経済はどうなっていくのか、日本人にとって、参考になることが多くあり、ウオッチは、必須と思う。

日本の今後も、ますます、若年対熟年の対立が深刻だ。

時に、テレビなどで、高齢者が、「俺たちを見捨てる気か!?」などと叫んでいるが、今後は、周りから「そうです!」とはっきり言われることが、日常になる世の中がきそうである。
経済効果の無い老人を切り捨てるための大義名分をつくることはたやすいと思う。
超高齢化の社会になり、経済のことだけ考えれば、老人医療は切り捨てたいところだろう。

今後、深刻な対立が生まれる要素が多い。思慮の浅い“衆愚”が目先の利益で動き、老人偏重、あるいは若者偏重、どちらにころんでも大変な軋轢社会になるだろう。皆、不満だらけの世の中になっていく。

しかし、一方で、若いということは、良いことばかりではない。若い人は、人生経験がなく思慮が足らないのは明らかだ。
よく、選挙ポスターで候補者が、「若さがとりえです」なんているキャッチコピーを書いている人がいるが、若いということがマイナスであるという自覚が無いのだ。
政治家は、若くてはいけないと思う。

政治家は、“衆愚”を説得し、“衆愚”の支持を得て、権力を発揮する。しかし、政治家は、官僚、役人に一目おかれなければならない。

日本の政治体制は、議員性であるし、政治家が仕事をするためには、実際のその仕事を担う役人たちを動かせる実力が無くてはいけない。経験と教養は大事だ。

役人たちは、議員が“衆愚”的と思った時点で、その議員の言うなりにはならずに、聞き入れない。

経験が少ないくせに、役人を動かそうとする議員ががんばると、役人たちとの対立が深まって、役人が対抗的になり、無駄な牽制をするようになる。
この政治的効率の悪さは、結局、税金が無駄にかかることになる。

参議院選挙のポスターを見ると、若い美男、美女が増えたと思う。
まさに、芸能界的である。政治家が見た目で判断される時代になっていると感じる。

昔から、変人が立候補することはあったが、こうした泡まつ候補は、ポスターも作らず、ほとんど票も入らないことは、選挙前からわかっていた。

しかし、今は、選挙変人たちが変化し、さりとて泡まつ候補でもなく、価値観が複数化しているような気がする。

候補者の中には、無報酬で働きますとかの、キャッチコピーもある。
立候補する若い人たちの未熟性が増している。

こうした“衆愚”的な立候補者は、「私が議員になったら、血税を無駄にすることを約束します」と、自らのポスターに書き込んでいるようなものだ。

立候補者は、なぜ、自らの未熟性に気づかないのだろうか?こうした人に投票してしうことこそ、まさに“衆愚”なのだ。


舛添さんが「公明党」に見捨てられた、本当の理由
6月21日(火)付けのITmedia ビジネスオンラインというネット記事で、窪田順生記者が以下のようなことを書いていた。題して“舛添さんが「公明党」に見捨てられた、本当の理由”である。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160621-00000039-zdn_mkt-bus_all

内容は、ベテラン記者らしい公明党に関連する興味ある情報をまとめたものである。
多くの証言や引用に基づいて、舛添氏の政治家としてのバランスの悪さが、書かれている。
特に、公明党を怒らせた理由がよく書かれている。

舛添氏は、公私混同の謝罪に失敗した。彼は、以前に「東京都民の血税を一円たりとも無駄にしてはいけない」と言ったそうだし、年金横領をした人に対しても「牢屋に入れ!」などと非難したらしい。つまり、舛添氏は、非難や他人を攻撃する時の言葉使いが強いのである。

舛添氏は、こうして強く他人を非難したくせに、ご自身の公私混同は別だったのである。これは、相手の信用を失うという意味から、致命的であった。舛添氏が口に出す言葉が、本音ではないということが、人々に伝わってしまったのである。

舛添氏の謝罪は、口先だけという印象を多くの人が感じてしまったのであろう。
舛添氏は、公明党に対しても、そうした“口先だけの人”という印象を与えてしまった。
過去のいろいろな事実が記事で紹介されている。

公明党は、協調性を大事にするためか、自我の強い知識人はいないし、テレビ討論でも建前論が多く、次々と前へ進む議論は得意でないように思う。

この窪田順生記者は、公明党の気質を巧みに分析している。
以下が記事の一部である(青字)。

辞意を固めた直後、ご本人が「公明党に裏切られた」と愚痴ったというのだ。

「潮目」が変わったのは6月13日、総務委員会で公明党の松葉多美子都議が「辞任」を迫ったことだからだ。
  松葉さんは、昨年9月に豪雨で鬼怒川が決壊し、都内の一部でも避難勧告が発令された後、舛添さんがいつものように公用車で別荘へ向かったと事実を公表し、「危機管理意識が甘い。責任感が欠如している」と批判した。

  また、公明党が東日本大震災の被災地への訪問を何度も促してきたのに、舛添さんは全く興味を示さなかった。

都知事に名乗りをあげた舛添さんに対して当初、自民党は冷たかった。厚労大臣で知名度が上がるや否や、後ろ足で砂をかけるように、「新党改革」を立ち上げたいわば“裏切り者”だからだ。
そんな頼りない自民党に代わって、鉄の結束で舛添さんを支えたのが公明党だ。
 では、なぜ公明党は舛添さんを見切ったのか。

「別荘にいる時に首都直下地震が起きたらどうするんだ」という記者からの質問に対してこう答えた。
  「全く問題ありません。奥多摩よりも、おそらく早く帰ってこられる。少なくとも時間・距離的に言うと、早いです。湯河原の方が」

創価学会のみなさんにとって、「奥多摩」というのは特別な意味をもっている場所だからだ。
池田大作名誉会長は、緑と人材あふれる多摩地域に、限りない未来の可能性を見出し、常々、「三多摩の時代が必ず来る」と語りました』

 2014年の都知事選で、舛添さんは池田大作名誉会長の「三多摩の時代が必ず来る」という言葉と妙にかぶるこんな公約を掲げていた。
(舛添氏の演説)  「これまでの都知事は、三多摩地区を軽視してきた。東京23区だけが東京じゃない」「三多摩地域の発展なくして東京の発展なし」
三多摩地域の方はもちろん、創価学会のみなさんもこれには大いに期待をした。

●舛添さんのリスクコミュニケーションは失敗
  今回、舛添さんのリスクコミュニケーションは完全に失敗だ。そういう特権階級的慢心に我々「衆愚」は敏感である。リスクコミュニケーションは弁護士や検事が用いる「詭弁術」ではないのだ。

以上が記事の内容である。この記事では、一般人を「衆愚」と呼んでいる。
「衆愚」というのは、へりくだった表現でもあるが、民主主義の根幹でもあり、政治家にとって怖い存在だろう。

「衆愚」自らは、十分な知識や教養がないが、知識人を評価して、尊敬も軽蔑も選択できる自由人たちである。つまり、「衆愚」に馬鹿にされたら、知識人は知識人でなくなる。

舛添氏は、豊富な知識に裏づけられて、議論や討論は得意であったであろう。他人の書いたへたな原稿などなくても自由にしゃべれる人だ。

学術的な論争なら、文献的知識が豊富で、自由にしゃべれる方が有利だ。簡単に相手を論破できてしまう。

学術的論破にたけた舛添氏は、相手を納得させようと、次々としゃべってしまった。
その結果、彼の本心(表面的謝罪と特権階級としてのおごり)が周囲にばればれになった。
謙虚さを演出することができず、以前にしゃべった内容とも矛盾してしまったのである。

「衆愚」は、特権階級の人から声をかけられて喜んでいたが、その憧れの人は、衆愚に声をかけたことすら覚えていなかった・・・・。

がっかりした「衆愚」は、舛添氏に対して裏切られた思いで、怒りがわいてきたのである。
舛添氏は、そうした「衆愚」の心を読むことが全くできなかった。

その結果、数で対抗する力しか持たない「衆愚」の反撃をくらったのであろう。


報道では、舛添氏の最後の登庁を以下のように紹介している。

21日付で辞職する東京都の舛添要一知事が20日、残務処理のために登庁した。この日は都知事としての“最後の登庁”。退庁時には都職員による花束贈呈などの見送りのセレモニーもなく、ひそやかな退場となった。見送ったのは知事補佐官ら幹部8人のみ。舛添氏とともにホールに現れ、立ち去る舛添氏の車に向かって深々と頭を下げた。
舛添氏のセレモニーがなかった理由について、都は「やるかどうかはルールがなく、ケース・バイ・ケース。今回はやらなかったとしかいいようがない」としている。

舛添氏は、大変な罪悪人のようになってしまった感がある。
そうした意味では、気の毒な幕切れであった。

それこそセコイ公私混同が、高額な公金横領者のように扱われてしまった。今後の選挙にかかる費用も、彼が無駄使いをした元凶であるとみなされるのであろう。

一方で、不機嫌に都庁を去る舛添氏の心は、煮えたぎる怒りと屈辱感で一杯というところかもしれない。

ついこの間までの舛添氏は、世界中に名前を知られた権力者としての扱いをうけていたのだから、この格差は、耐えがたいほど、くるしいものだろう。

しかし、そうした状況で苦しんでいても、舛添氏はそこから脱する努力をするしか、救われようがない。なぜ、多くの人に攻撃されるのか?どこのかじ取りを間違ってしまったのか?舛添氏が自らで答を出さない限り、舛添氏はこの苦境から脱せない。

舛添氏は辞職表明後も、記者と接触を持ち、何からのメッセージを発信すべきだったと思う。

都庁の職員も、猪瀬氏にセレモニーをしたのなら、さらに規模を小さくして舛添氏にもセレモニーをしてもよかった。それは、今後の舛添氏のメンタルの悪さ(自殺しかねない・・・)を考えると、舛添氏のみ100%悪という扱い方をするのは良くない。

舛添氏は、彼の知的能力を生かして、世界とわたり始めたのであろう。
舛添氏の努力に答えるように、世界の要人が舛添氏に近づき始めた。
しかし、この舛添行動に、警戒心をつよめていた政治家、有力者、権力者はいただろう。
そうした舛添氏牽制の社会的動きは、マスコミの暴露記事をやりやすくしたと思う。

東京都知事は一地方の首長にすぎないのに、舛添氏は外国で大臣のようなふるまいをしたと非難された。舛添氏は、世界の権力者からの支持を得てはならぬの妬みが沸き上がっていたのではないか?。

都庁内でも、指導力と権力が集中するように見えてきた。

こうした舛添天下に対し、あちこちから懸念やジェラシーがでてきていたであろう。その結果、目立ち始めた舛添氏の権力は、潰される方向へと舵が切られた。

舛添攻撃の政治的危機への画策が具体的に目で見える形で出てくる。マスコミは、私混同などの公金の無駄使い暴露を始めた。仕掛けられた罠と言えると思う。

舛添氏が元からこうした金銭問題に注意深い人であったなら、あるいは、舛添氏に有能で注意深い管財人がいたなら、こうしたミスは犯さなかったろう。

そして、公金無駄使いの追及に対して、舛添氏は庶民の感情を逆なでするような失言を繰り返してしまった。彼自身の真摯な言葉で謝れなかったのである。

弁護士を引き出して、「違法ではない!」と言わせてしまったミスも大きかった。

舛添氏は、私は偉い!私は特別だ!と言ってしまった。偉い人が偉いと言ってしまったら、おしまいである。

さらに、私の書を欲しがる人がいる!などの自慢話、不遜な態度がバレバレになってしまった。

舛添氏本人は、弁明のつもりだったかもしれないが、辞任を粘れば粘るほど、不遜が強調されてしまい、弁明が逆効果であった。

この逆効果が、結局、都庁去るときの花束の無い見送りになったのだろう。
都庁職員は、とにかく、世論を恐れた。

職員は、舛添氏の努力や業績を評価したであろうが、それを形にすることが許されなかった。ていねいに頭を下げた幹部職員は、舛添氏の才能に触れた人かもしれない。

今後の舛添氏は、どのような行動になるのだろうか?しばらく、公には顔を見せないかもしれないが、舛添氏は、とにかく、怒り、くやしさを克服して、毎日をすごしていかなければならない。

そのためには、舛添氏は、何を間違ったのか?どうすればよかったのか?を自問自答して、自身を納得させなければならない。自らのホームページに、つらい思いを書いても良いと思うし、告白本などでも良い。

田中角栄本のように、時代が舛添氏を評価する時が来るかもしれない。

舛添氏がすねて怒っていても、本当に毎日が苦しく、大きな病気をしょい込むようになるではないか?

これほどの規模ではないが、誰にでも似たような困難な状況に陥り、世の中から追放されたと感じる時はあるだろう。

そうした時でも、自らで自らを見捨てることをしたら、生きてはいけない。今後の舛添氏の行動次第では、一般人がそこから立ち直りのヒントをもらうこともあると思う。

舛添氏は、気持ちの切り替えや立ち直りのいい形の見本を見せてほしい。

昨日の都議会で、辞任の表明をした知事の言葉は、自らの行動を反省し、その責任をとるとの内容であった。そして、オリンピックは一都民、一国民として楽しみたいと言った。

この言葉は、辞任の言葉とすると、潔くかつ格調も高いと感じた。すがすがしく、権力の座から降りたという印象を受けた。

一昨日の、なにがなんでも辞任したくないと涙で訴えた人が、ついに辞任を決心し、かつ、深く反省し、権力がなくても良いという印象で、さすが頭脳明晰な人は切り替えがすばらしいなどと感じてしまった。

しかし、どうも、今日の舛添氏はそうした潔いわけでもないのかなと感じた。
やはり、彼は怒っている!のか?悔しくてしかたないのか?

自らの不徳の致すところを深く反省するなら、残務整理に精を出すはずであった。
少なくとも、都庁にきて何かをしてほしかった。もし、舛添氏が何らかの政治家として活躍したいのなら、いつもように都庁入りし、21日までは通ってほしかった。

舛添氏が記者会見をやるとするなら、言うべきことは決まっている。
おごりがあった!公私混同した!これは恥ずべきことで、今後はこの失敗を肝に銘じて人生をやっていきたい」みたいなことを言うしかないだろう。

そして、「知事としての2年半、私は全身全霊で仕事をし、具体的成果をあげることができた。さらに、オリンピックを契機に、今の東京がいかに才能と将来性があふれた街であるかを、世界中に示したく、そのための夢は限りなく壮大であった。」などと続けて、人心を打つような大演説をしてほしかった。

舛添氏は、自らの将来の夢を展望しながら、感極まって泣いても良いと思う。

この演説時、やじが飛んでも、舛添知事は必死にしゃべろうとするならば、聞きたいと思う人はいるはずだ。ヤジを飛ばした人が浮いてしまうような大演説を舛添氏はすべきなのだ。

もし、舛添知事が今後も政治的活動をしようとするなら、こうしたパフォーマンスは必須だと思うし、彼には才能があると思う。

公私混同のお金の使い道についての真実の解明などを明らかにすることに、どんな意味があるのか?出版社の社長の実態がわかって何になるのか?

今回の騒動を契機に、政治資金は、プライベートに使ってはいけないことを、日本全体、政治家から庶民までの層で確認したのだから、それで十分だろう。

他の議員だって、政治資金の使い道をあれこれ言われたくはないのだ。
もっとも、共産党の議員は、中央管理がしっかりしているから、暴露されててもあまり困らないかも・・・。

舛添知事が、ご自身の家族の受けた被害にこれ以上耐えられないと訴えたが、家族は確かに気の毒とはいえ、その前に、舛添氏には婚外の子供が三人もいる。

この婚外の子供たちの成育環境は、少なくても今は恵まれていない。恵まれない出生と生育条件を押し付けた事に、舛添氏の責任がある。

舛添氏が家族の話をしたとき、女性たちはこの事実を思い出すだろう。

この婚外の3人もの子供の存在が、知事選前に暴露されていたら、女性たちは舛添氏に投票しない。

米国なら、選挙に出る時にすでに、こうした過去の問題点はマスコミに暴露されてしまっているだろう。

舛添氏が不機嫌な顔をつづけると、本心は不本意で理不尽と感じているとのメッセージとして受け取られるだろう。


舛添知事の解散は無かった!

もし、解散宣言ともなれば、いよいよ舛添氏のメンタルが危ういとの判断になるので、舛添氏の錯乱行動に対してドクターストップはあるのか?などと私は考えていた。都議会議員も、解散宣言にはドキドキだったのではないか?

権力者が心身共に疲弊して、判断できる状態でないと医師が認めれば、ドクターストップはありだろうとも考えた。

核のボタン、戦争公布などもそうであろうが、権力者が心神喪失状態になり、最後の権力行使に踏み切ったら、とんでもない命令を出しうる。もし、そうなったら、何か止めるしくみがあっても良いのではと思った。

今回の舛添氏は、怒り心頭で解散宣言してやる!となったら大変だった。でも、それは無かった!むしろ、本日の舛添氏は、すべて、悟った人を演じ、昨日までの人とは全く違っていた。

外国のメディアは、舛添氏不在では、オリンピックに影響が出るなどとの報道もあるようだ。しかし、日本にはオリンピック実施に影響を与えられる政治家は存在しないだろう。

日本の政治家はコロコロ変わっても、官僚組織は連
面と続き、そこで決定された政策判断を、政治家は演じる人なのである。過去に、田中真紀子氏が官僚をやめさせた時の官僚の反撃は大きかった。
官僚は、政治家から活躍の舞台を奪って干してしまうことができてしまう。

地方は、国よりもっと役人の役割が大きいのだが、知事になれば人事権があるので、好きな役人を選ぶなどして、知事が好きな政策に近づけることができる。

こうした日本の政治のしくみには、外国のような指導者はいらない。権力を振り回して、官僚の判断を捻じ曲げる首長の方が問題が多い。

舛添氏が、人類の攻防などの歴史に造詣が深く、政治学の時代変遷について膨大な知識を蓄えていても、今、必要とされる常識的な政治判断がスムーズにできなかった。
つまり、過去の歴史には事例はなく、政治学の知識は無力だった。

なぜ、舛添氏は辞任に最後まで抵抗したのか?ここには、考えさせられる問題が多い。
簡単にいえば、舛添氏は権力者がはまりやすい“裸の王様”になってしまったのだろうが、今日の舛添氏は、それに気づいたのかも・・・。

外国の要人も、舛添氏を外国の権力者同様に扱っていたのだろうから、舛添氏自身も、ご自身が特別の人であるとの思いを強め、俺は権力者だ!になり、自信を深めてしまったのだろう。

権力の座とは、人が人であることを見失ってしまう極めて危ない立場であろうと思われる。

皆がやっているけど、やってはいけないことに、政治資金の使い方があるだろう。
つまり、今の日本では、政治家の公私混同がばれてしまった時には、運が悪いとあきらめなければならない。

法律に違反するとかではない。弁護士など、不要である。舛添氏は、ひとつひとつ言い訳せず、ただただ、財政担当者の処理ミスでも、うっかりミスでも持ち出して、公私混同を言い訳せず謝まる作戦の方が良かった。

普段から、公私混同にならぬよう、とても気をつけていたが、ここだけ、たまたまミスがあった」みたいな言い方しかないのだろう。舛添氏がいろいろ言い訳をするほど、突っ込まれる材料を提供してしまった。

公私混同を攻撃しようとする人は、「屁理屈をつけて、公私混同を認めようとしないではないか!」との追及をしてくるのだ。
野球観戦しかり、中国服問題もしかり、攻撃者に材料を提供してしまうだけだった。

権力者は、周りはチヤホヤしてくれる状態が当たり前になってしまう。特に、今の東京都は、世界から注目される状態で、オリンピックにあやかろうとする公的私的な申し出が多数あるだろう。

世界から知事のご機嫌取りに都庁に訪れる人たちがあふれ、客人たちは、知事を教養豊か人としてほめちぎったかもしれない。

舛添氏が、外国に行けば、いろいろな要望が持ち込まれたであろう。たくさんの要望を受けるために、知事にはスイートルームが必要になるのだろう。
庶民は、夢でも、こんな立場になってみたいと思う。こうしたあちこちで生じていたジェラシーが、舛添氏追及に一役買った。

しかし、都市外交の指導者としての活路を見出した舛添氏は、毎日が喜々としたものであったろう。週末の疲れは、英国貴族の週末カントリーハウス気分での別荘通いが必要であった。

釈明を求める大衆は、権力からは程遠い人たちなのである。大衆は、税金を納めるために心や体をすり減らして給料を得る。

企業検診を経験すると、工場で働く労働者がいかに体を犠牲にしているかを実感できる。騒音、吸入物質など、人体への悪影響がある。それでも、皆、そうしたことを自覚しながら働いているのである。

東京都の土地を韓国に貸し出す約束も、舛添氏が直接、朴大統領から頼まれたとの報道であった。確かに、舛添知事が朴大統領を訪問している写真を見ると、舛添氏が喜々として握手している様子がある。舛添氏はとにかく権力者が好き!なのだ。

舛添氏のような権力志向の人間にとって、今の東京都知事の立場は、絶対に手放したくないものだったのだろう。

都庁を訪れた世界の要人たちは、再び、リオの地で再開を喜び合う予定だったのだろう。だから、舛添氏はなにがなんでも、ご自身がリオに行かないと、収拾がつかないはず!と感じていたと思う。

私が行かなければ、日本の恥であると本気で思っていただろう。
しかし、外国の政治家は、真の権力を持つ体制下の人なのだろうが、日本の政治家は、そうした人でもないのだ。そこを安倍首相などは変えようとしているとは思うが・・・。

権力を失いかけた人の生き様は、政治でもドラマでも、多くの人を釘づけにする何かがある。

辞任を表明した舛添氏は、これからはオリンピックは一国民として楽しむなどと言った。彼の中で、夢の楼閣が消えた。

今は気が張っていても、これからの彼のメンタルはどのような状態になるのかは心配でもあり、興味深くもある。しかし、もはや、舛添氏は、心のうちはもう誰にも見せないかもしれない。





テレビに映る舛添氏の表情は硬く、信念を貫くぞ!という印象を受けます。

昔、武士の時代に、家老から疑惑を突き付けられた家来が、最後の命乞いをするのは、こんな風な様相だったのでは・・・と想像してしまうような迫力が舛添氏からあふれています。

この強い表情は、自らの名誉のために死をも覚悟しているという印象にも見えます。
メンタル的にも舛添氏の状態は心配な状態になっているのでしょうが、桝添氏が今の状況を理解していないからこそ、怒り心頭で、この表情になるのでしょう。

知事のポストなど、所詮、棚ぼた的なものであり、今回はたまたま運悪く窮地にはまってしまったからあきらめるしかない・・・、というような一般人が抱く心の切り替え方は、舛添氏にはできないということなのでしょう。

舛添氏は棚ぼた的に得た知事のポストという意識がなく、オリンピックを格調高く文化的に成功させることのできる人間は私だけだ!と自負しているでしょう。

そして、日本が世界に認められるためのオリンピックにするのは、私(舛添氏)が必要だと感じているでしょう。

すでに、東京都を訪れる外国の要人たちから、舛添氏は、最大、持ち上げられていると思います。だからこそ、舛添氏の書を要人たちがありがたいと喜ぶのでしょう。
この褒め言葉がどの位、本心からであるかは、舛添氏にはもうわからなくなっていると思います。

今の状態の舛添氏は、正当な知事として納得できないような理不尽な状態になっているとの認識で、自らの怒りがコントロールできないのでしょう。

もともと、知事職というのは名誉職ですから、実際の政務はほとんど役人が決めたものを、知事は政策した人であると演じる役割です。

一般的に、国以外の役所では、下の階級から上の階級の役人によって、何度にもわたる多くの承認と修正を経て、政策があがってきます。

知事の実際のしごとは、議会での承認に向けた象徴のような立場だと思います。しかし、舛添氏のような人が、知事になると、そうした全体合意に基づく政策を変えようとしたり、直したりしてしまうと思います。自らの判断が正しく根拠があるとの自信にあふれる知事は、他人の仕事を直して、自らの業績にしたいのです。

役人からすると、知事はあくまで象徴として“君臨すれども統治せず”でいてほしいと思うでしょうが、役人は知事に振り回されるようになります。

不満な役人たちは、あの手この手で知事を牽制するでしょう。しかし、不満を露骨に表す役人は出世しないようになり、知事の意向で動く人が出世することになります。
こうして役所は、じょじょに知事好みに変わっていくでしょう。

そうした意味では、地方自治体は、独裁者が現れる政治の仕組みがあると思います。
しかし、過去に、独裁的な知事が長期政権を維持できることが少なく、長期政権が維持できるのは、副知事などの役人出身者が知事になる場合が多かったようです。

舛添氏の言動を見ていると、彼のような人は独裁者になれる資質の持ち主であろうと感じます。

こうした自信家の人は、自らが優秀であると信じ(実際に、舛添氏は学問エリート)、大衆を指導していくべき人間だという思考になってしまうと思います。

権力志向が強い知事は、自らの権力の高みに向けて努力している時が、最高に満たされる時なのだと思います。周りから何を言われようが平気です。

だから、他人から「あなたの認識は常識的でないから、やめてください」と言われても、他人の判断は間違っているから聞き入れらないとの判断になるのでしょう。

不信任案が可決されたら、明日の舛添氏は議会を解散するかもしれません。

選挙で莫大な公金が使われることになっても、舛添氏は、知事の権限を行使するかもしれません。

明日の都議会はどうなるのでしょうか?議会の解散が本当に起こり得るでしょうか?

都議会で舛添氏の追及が続いています。

本日、行われた集中討論は、議論を白熱させるために、質問者は質問をまとめず、ひとつづつ質問し、個々で答える形式とし、その一部がテレビ放映で流されました。

しかし、舛添氏は、ひとつ答えるごとに席に戻り、又、質問に応じて席から出てくるという様相でした。舛添氏は、席から立ち上がり戻るまでに、時間をかせいで、答えを整理するのでしょうが、これでは迫力ある議論ができません。

米国の政治家の論戦などでは、お互いに即時に応答をしています。大統領選の論戦も即時回答を求められます。瞬時の言葉は、演者の本質を表します。
オバマは即時の追及や返答が得意でした。

舛添氏を席に戻らせないというのは、議長の判断でできそうなことだと思うけど、そうした戦い方が見たいですね。舛添氏の誠意をもって対応するというのは、席に戻らない姿勢ですね。
質問する議員の資質も、丸見えになります。この舛添氏の時間稼ぎは、見ていて残念でした。

今日の論戦の最後に、舛添氏は改選の選挙がオリンピックに重ならないようにしてほしいと言い、これは私利私欲ではなく、国家のためだと強調していました。

しかし、オリンピックと選挙日程など、役人がなんとかつじつまをつけるでしょうし、役人は粛々と仕事をこなすと思います。

やめていく知事が、気にするようなことではないのですが、舛添氏のそうした発言を聞くと、舛添氏はすっかり、ご自身が特別の人であることに浸りきっているという印象を受けました。

舛添氏は、文化、文学、歴史、言語など、おそよ教養と言われる知識の宝庫である人だと思います。だから、舛添氏は、美術館、博物館は大好き、外国に行けば、歴史のうんちくを語り、歴史あるホテルで特別待遇を受けることに大喜びし、ご自身が特別の人であると信じ、その自信を増強させる立場だったと思います。

舛添氏は、国会議員や大臣時代も特別扱いをされていたと思いますが、政治的権限という意味からすると、知事の方が強いです。
国会議員と違い、知事は人事権を持ちます。つまり、知事が好きな人を昇格させ、周りに集める事ができます。
知事の言うことを聞いてくれる人を集めていくことができるのです。

知事は、西洋文化に造形の深い人が好きでしょうから、そうした役人が出世している可能性があると思います。東京はそうした知識人の宝庫でしょう。

そうして、舛添氏には、東京を世界の文化の中心にしていきたいとの壮大な夢があるようで、それができるのは、私(舛添氏)だけとの自負もあるのでしょう。

今回話題になっている、筆や墨の問題も、舛添氏が書いた書を、東京都を訪れる世界の客人に送るためと言いました。世界の客人は、舛添氏の書を欲しがるそうです。権力者に許される特権です。

しかし、こうした自慢的な言い方は、今の舛添氏の弁明にはマイナスの効果しかありません。でも、舛添氏は、そうしたところに気づかないんですよね。

舛添氏は、ご自身が、特別の人であることにどっぷり浸かってしまったので、給料をもらわなくても、特別な人でいたいと言っているのです。

本日の都議会の委員会の知事の最後の言葉で、印象深かったのは、議員からファーストクラスやスウィートルームを使うことの問題点を追及された時、舛添氏は表情をむっとさせながら、
「今までのように、与えられた旅行日程をそのまま受け入れるのではなく、しっかり判断する」との言葉です
これからは、役人が決めた高いホテルやファーストクラスを止めて、もっと安い旅行手段にするという言い方でした。

つまり、舛添氏は、追及されている公的旅行費用の問題などは、役人が決めたのをそのまま実行しただけ!私が決めたのじゃない!追及されることじゃない!と言いたいのだろうと思います。

こうしたところに、舛添氏が隠している怒りがちらつきます。口は平身低頭で謝っていても、内心は煮えたぎる怒りがあるようです。

記者会見の舛添氏は、何度も同じことを聞かれても丁寧に答えて、怒らないのですが、、その丁寧さが逆に、記者の質問をバカにしている印象を受けます。

舛添氏は、取り繕うためのポースで怒りを抑えている様子で、丁寧な口先の言葉は、記者のお相手をしてあげてやったぞ!との印象になってしまいます。こんなに時間をかけてやっているぞ!とのメッセージになってしまうのです。

たとえば、記者会見で
「だから、私はこんなふうに皆さん(記者)に対応しているのですよ」などと、恩着せがましく言ってしまうのです。

上から目線の記者会見のスタンスが、こうした言葉に出てしまうのでしょう。これは舛添失言の一種と言えます。

舛添氏がこれだけ追及されている様を見ると、小保方氏が追及されていた時のことを思い出します。マスコミの追及が厳しいのは、「お前は、悪いことをしたのだ!こらしめてやる!」とのメッセージがあるからでしょう。

こうしたマスコミ追及に対し、舛添氏はマスコミ周囲をバカにしていても、そうした心を隠し、表面を取り繕う作戦で正面から応戦したのに対し、小保方は、恐怖を感じて逃げるという対応でした。この違いは、やはり、体力の違いが大きいと感じました。やはり、生き残るチャンスを信じて、戦うには体力が必要です。

マスコミの個人攻撃は、決してほめられることではないのですが、止められないものでもあるようです。権力者が権力をちらつかせる時、権力の無い人たちは、集団で怒るしか手段がないのです。


舛添氏への疑惑と釈明が続いています。舛添氏は、盛んに第三者を口にして、公正中立なしくみを採用するかのような言い方をしましたが、この第三者というものほど、あいまいでくせのあるものはありません。

舛添氏の場合も、舛添氏自身で判定人(元検事の弁護士)を選定し、それがどういう立場の人かは、あらかじめはわかりません。

しかし、判定人がどのような経歴の人かについては、マスコミはかぎ分けが得意ですから、その人となりを報道します。その報道を聞いた人は、その判定人が適切かどうかを、それぞれの個人で考えることができます。

しかし、こうした判定材料が無い場合、この第三者というものほど、危ないものはありません。

今回のSTAP事件で、第三者と称して、偏った価値観を振り回して偏向した裁定をした最たる人は、改革委員会の岸委員長でしょう。

桂調査委員会も同様で、第三者という触れ込みにはほど遠く、理研の一部の研究者が解析した結果を追従しただけでした。小保方氏の単独犯行とすることが、理研にとって最良のSTAP疑惑解決法であるとの立場に賛同してくれる学者たちを調査委員に選んでいると思います。

報告者には、ESが偶然に混じってしまった可能性なども書き込まれています。
ES混入がどのような経過で起きたのか、その経緯は不明であるため、調査報告書は、小保方氏の犯行は問えない!との説を結論としながら、一方で、小保方氏が限りなく疑わしいとの書きぶりの報告書です。<

こうした書き方は、前ブログでも書きましたが、小保方氏側からの訴訟にそなえてでしょう。

平行して、調査報告書には、酸浴後細胞の培養7日間における限定期間での犯行であると決めつけて、小保方氏一人のみが混入行為ができる立場であるとの印象操作もしています。

報告書には、小保方氏が7日間培養後の細胞をデッシュの皿にのせて、若山氏に持ち込んでいたとありますので、ESを混ぜるとしたら培養中より、ディシュの皿に細胞を移した時にESを混ぜるのが技術的にはやさしい?ような気がします。

しかし、細胞を渡した時の様子は良くわかっていません。小保方氏も明らかにしていません。STAP幹細胞作成に成功した時に、小保方氏が、どのような状態で(ディシュに培養状態でわたしたのか?ふたに細胞を空けた状態か?)、若山氏に細胞を渡していたのかは、「あの日」には書いていてありません。

又、「あの日」には、実験用子マウスからとった脾臓細胞を、誰から小保方氏へ渡されたかも書いてありません。

これらは、犯人特定につながるような微妙な問題なので、小保方氏は、「あの日」に書くのをやめたのではないか?想像されます。

もともと、調査委員会は、犯人を特定しようなどという気は全くなく、限りなく小保方氏が疑わしいとした状況に置くだけで十分だったのだろうだと思います。

研究所と同様ですが、病院においても、第三者という組織のいいかげんさ、無責任さについて、書きたいと思います。
病院における第三者調査の危うさは、研究所以上かもしれません。

一つの例ですが、千葉の海浜病院で、心臓手術で患者が立て続けに死亡したことを受けて、調査委員会が立ち上がりましたが、幸いなことに、調査委員会の裁定は、医療ミスと言えるような問題はなかったとなりました。

しかし、これに対して、千葉市長は、「医療ミスは無くても問題はある」と言いました。そして調査を続けるために第三者機関を検討していると言いました。

市長は、体制が万全になってから心臓手術を再開したいとのことですが、市長がどんな根拠をもって万全であると判断するのでしょうか?

病院には、心臓手術を待っている人たちがいます。こうした患者さんの立場を配慮すれば、医療ミスが無いとの裁定が出た時点で、できるだけすみやかに病院機能を回復させるような方向を指示するのが市長ではないでしょうか?

そして、実際に、いつから再開するのかは、病院側に任せるべきですし、同時に、市長は、落ち込んだ医療関係者を励まして、すみやかな再開を期待する姿勢を示しても良いでしょう。

市は、心臓外科医を大事にして医療チームを信頼しなければ、病院機能などは消滅してしまいます。

信用されてない専門家が、試されるための作業をさせられたら、屈辱的な仕事であるからして、専門家はいやがるでしょう。小保方氏の行った検証実験も、そうした屈辱的なものでしたね。

医療現場では特に、第三者組織ほど、問題があり、トラブルメーカーになるものはありません。病院の医療ミスは、内部告発が信用できます。手術に立ち会っている人たちが、どう判断しているのかが決め手だと思います。第三者ではわかりません。

心臓手術を判定できる第三者的な専門家には、派閥学閥もあれば、術式の違いなどもあり、医学上のライバル関係にある人たちです。

そうした人たちを、第三者として呼んできて、裁定をまかせたら、お互いをけなし合うことになります。さらに、病院のポストの奪い合いの場になるかもしれません。病院は、新しいグループに変わったとしても、やさしい手術しかできず、成績は上がるかもしれません。これでは、病院機能の低下です。

専門家の仕事を専門的に判断することは、非専門家にはわからないのですから、専門家の間の権力抗争の場になるのです

日本の政治家は、市民に向けても、病院職員に向けても、共に気持ちがアップするような言葉をかけることができず、市民に対してやたら謝ったり、職員を脅すようなことをしてしまうようです。

改革委員会の岸委員長が。こてんぱんに神戸CDBをけなして潰したことは、第三者の岸氏が内部抗争に利用されたという見方もできます。岸氏も、石川氏も、被害を受けた人から、訴えられても良い立場です。

第三者組織という響きが良くても、中身は無責任組織のようなものにすぎず、訴訟の的にもなりえるわけで、この仕組みの危険性が議論されるべきですね。

http://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt2/17344180.html
上記のteabreakt2さんのブログに、相澤氏が著者である検証実験のデータが紹介されています。
http://biorxiv.org/content/early/2015/10/07/028472

上記の論文は、検証実験で、塩酸やATPにつけた後の細胞では、緑の蛍光(万能化)を発する細胞は少なかった(無かったとは言っていない)ということと、キメラ胚から生まれた子供には、STAP由来細胞は無かったという従来の理研報告と類似の結果が書かれています。

しかし、注目すべき点は、小保方氏による実験は大きな制約がある状態でやられたと書かれていることです。

又、万能蛋白定量の実験で、多能性マーカーについては、preliminary analysis と書かかれていることも注目されます。preliminary analysisは、予備実験という意味で、普通は、続報でさらなる成果が発表されることを前提にしています。

かつ、相澤氏の論文では、万能蛋白定量の結果は、Resultではなく、Discussionに書き込まれています。普通、大事な実験データは、Resultに書くのが普通で、DiscussionはResultを説明するために書くものです。

つまり、読者は、続報があるのではないかと期待してしまうものです。相澤氏は、続報をかかなければいけないとの思いがあったのかもしれない・・・などとも考えます。相澤氏は、小保方氏以外の検証実験の参加者から、別のもっと良いデータを託されていたのではないか?などとも想像したりします。

いづれにしろ、調査委員会による大本営発表で、理研職員がまとまったとは思えませんし、ねつ造論あるいは、混入論でつっぱしろうとするグループに反発する人たちもいたと思います。

研究所は、上からの指示には従わず、科学者としての独自の判断を持つ人たちの集まりですからね。いろいろな判断があると思います。

決定権をにぎれて上層部を圧迫できたグループが、混入説で押し切ったのでしょう。
なにか、とっても無理な説を採用してしまったのではないかと思います。

専門的判断をするという事は、知識を持つ人たちがその時点で正解に近いと判断したものにすぎないです。その時点では、正解を持つ人はいないのです。後で正解がでることも、出ないこともあります。

調査委員会は、結局、混入と言う言葉を使っていますが、混入とは、STAP細胞培養10日間のどこかで、ES細胞をまぜて、そのまま培養を続ける作業です。これをSTAP保存検体の時期の異なる本数だけ、こなさなければなりません。できるの????というしろものです。

私が、他の方のブログにそう書いたら、おまえがやれ!とのおしかりを受けてしまいました。細菌でも同じコロニーにはならないのだから、まして高等動物の細胞をまぜるなど無理でしょう。丹羽氏もまざらないと言っているのに、理研が採用するのはびっくりです。

むしろ、理研は、“混入ができてもできなくても、混入が結論だと決めました!”との見解でしょう。

今後の小保方氏は、混入など不可能であるとの論戦をはってほしいです。