京都暮らしの日々雑感 -3ページ目

唄;美空ひばり「塩屋岬」

さて、美空ひばりさんである。

その時代の時々において、

演歌・歌謡曲史を塗り替えるような歌曲を発表されてきて、

この歌手を除いて演歌・歌謡曲を云々することが全く不可能であると言える、

それだけの大歌手であって、

勿論、その実力も実績も申し分の無い方で、

私らなんかがあれこれ言うべきことではないのであって、

一曲一曲を」大切に聴かせていただくという立場なのである。

従って、採り上げるべきこの一曲、となる場合、

どれを採り上げても「もっともだ!」という差二を得られそうなのだが、

敢えて、私はこの「塩屋崎」を上げたいと思うのである。

その理由は、

演歌・歌謡曲とはこうあるべし、とする

作詞家・作曲者。編曲者の情熱と期待を受けて、

その情熱と期待に応えて、それ上の

完成度での表現を実現された、正に奇跡のような珠玉の作品に仕立てられた、

総評かあれるべき作品なのである。

 

春には二重に巻いた帯が、秋には三重に巻いてもまだ余るほどに痩せてしまって、

その心痛と懊悩は深いのだが、

そこまで自分を追いやってもなお相手の幸福を願うという、

知れが自分の愛なんだという、

何とも切ない、半ば絶望的な歌なのである。

しかしながら、自分の心境を自らが語ることで、

実は魂の救済が予感されているというのが、

演歌表現でのお約束ごとなのである。

この「救済を予感させる」という歌唱表現が、美空演歌の真骨頂なのである。

 

演歌・歌謡曲の世界では、

北原ミレイさんは「14でナイフを光らせる」とか、

藤圭子さんは「15・16・17と私の人生暗かった」と唄い、

梶芽衣子さんは「馬鹿な女の恨み節」を口ずさむという、

怨念を真正面から採り上げた歌曲も数多いのだが、

勿論、それぞれに人間心理の奥深いところを掘り下げていっているのだが、

絶望と救済という振り幅の大きな世界を演歌は表現してしまうのである。

 

唄;ちあきなおみ「紅とんぼ」

ちあきなおみさんの、どれもこれもヒットした優秀作品の中で、

先ず採り上げるべき最優秀作品というのがこの「紅とんぼ」であろう。

当然のことながら、

この・反論・避難が・反論・非難が寄せられるだろうが、

そもそも、演歌・歌謡曲の世界において、

叙情歌・叙景歌というものが主流となっているのに対して、

現在の心境を淡々と語る「語り唄」というものが大好きで、

その「語り唄」が淡々とい耐える歌手という担い手が貴重な存在なのである。

 

新宿の駅裏で小さな飲み屋を営むということそれ自体がドラマなんだし、

誰ももらってくれないから、田舎に戻る、というのも、

人生においてのいろいろなエピソードの積み重ねがあったんだろうと思わせるから。

閉店に伴う落魄間というものもなくて、

なじみのお店がなくなってしまうという寂寥感が漂ってしまうのだが、

しかし、その後景には、

自分の人生が自分で担っていく以外にはなくて、

愚痴や泣き言やいろいろと言いたいことも一杯あるんだろうけど、

そんなことを他者に対して言うべきことではないという、

ある意味では常識的な、また別な意味ではご本人の人生観として、

かなり抑制された心映えが現れているわけである。

何処まで自分の個人的な心境が語り得るか、

飲み屋の女将とその客との関係性では、自ずから限界があるのだが、

ここでは、しっかりとその限界が守られているわけで、

何でもかんでも語ることで気が晴れるというものではないのである。

 

これは能、詞が良いんだね。

また、一人語りの詞に乗せ合わせたメロディが秀逸なのである。

 

一軒のなじみの飲み屋が廃業する。

だから、それがどうした?というのがよくある感覚かも知れないのだが、

そこから一片の人生ドラマを切り取ったこの曲は、

まさしく名作と呼ぶに相応しい。

 

唄;青江三奈「伊勢佐木町ブルース」

「恍惚のブルース」で衝撃的なヒットを飛ばした青江さんの、

次に飛ばした話題作である。

青江さんと同時期にデビューされた森進一さんが、

人生を唄うといった正調演歌の世界を歩み出していたのだが、

青江さんの唄は違っていた。

唄の遊び心なのである。

 

「卑猥だ」とか[エロい」といった世間の顰蹙は、

ご当人達制作側にとって不本意なものであったに違いないのだが、

しかしながら、世間の良識という壁が立ち塞がって、

危うく放送禁止か扱いを被るところを、

かおうじてそんな不当な扱いを免れたのだったが、

問題にもならないという健全な判断が勝ったということだろうか、

今聞けば、面白い工夫に満ちた、遊び心に満ちた歌曲であって、

一つの時代の制約を乗り越えた歌曲ということになる。

 

この点は、その後の歌謡曲の歴史を見ていけばいろいろな発展がある。

年端もいかないようなアイドル女性歌手に、

欲望丸出しの歌曲でデビューさせるといったことが躊躇無く試みられ、

欲望を表現することが本音を率直に語ることだと決めつけられて、

そこまで言うか?と言わなければならない状況まで行ってしまったのである。

日本人の心性として、

個々の欲望を抱くことは当然肯定されるのだが、

それを表現することには、抑制的な言葉遣いが求められる余地が生まれるのだが、

これはかなり高度な言語操作ではある。

 

青江さんが成功できたのは、その独特な声音にある。

ハスキー・ボイスと称されてきたが、

演歌・歌謡曲の歌手としては悪声であって、

一歩間違えば、ドスの利いただけのものとなりかねないのだが、

上手くコントロールされて、

現実から少し離れた独自な世界観を表現するものとなった。

貴重な歌手だったのである。

 

唄;舟木一夫「絶唱」

舟木一夫さんというと、

何にもまして「高校三年生」だろうといういう声が寄せられそうなのだが、

ここでは敢えて「絶唱」を採り上げる。

「高校三年生」という曲は、学園歌謡として定番中の定番となったのだが、

それは同時に、

ますとしての団塊世代が消費者市場に新たに登場してきた

象徴的な時代転換を露わにした事件であった。

このブームは、消費者たる若者の気分を遺憾なく表現していたかというと、

それは疑問であって、

もう少し上の世代が、「これが青春だ!」と決めつけたモデルと、

無批判にこの団塊の世代が池入れたものだったに過ぎない。

従って、例えば舟木さんが成人してしまえば、

その人気とブームははかなく霧散してしまう。

そんなことは最初から分かりきっているわけだから、

むしろ、デビュー以前より何等かの戦略が用意されていたと見るのが自然である。

 

それが文芸路線であった。

純愛をテーマとする歌曲の新譜が発売され、

ヒットとのヒットとの相乗効果を狙性さぅ・公開される。性され公開される。

実際は、レコードの製作も映画の製作も、

共通のタイム・テーブルに従っての売り出しせんりゃむであった。

この戦略が成功するためには、

主演者たる歌手にそれ打鍵ペン技力があるかが問われるが、

舟木さんには十分な祖そつがあったということであった。

 

文芸路線といっても、実は、かなり難しい世界なのである。

舟木さんの歌謡曲では、

純愛というテーマは、近代的な結婚の自由理念と封建遺制的な結婚観との、

理不尽なせめぎ合いということが主要なテーマになり得るのだが、

むしろ、婚姻の自由を阻害するものとは何ぞや?という問題がある。

恋愛や結婚に何かの資格条件が必要だといった認識は、

この格差社会という現実の前では物語としては成立しがたい。

不破起算の歌謡曲では、

何高の問題設定するような歌曲ではなくて、

その時の気分を第三者的な「語り部」として唄うというスタンスに立つ。

そのため、曲がいつまでも旧くならないし、

情緒的に受け入れられていくわけである。

 

唄;北原ミレイ「懺悔の値打ちもない」

北原ミレイさんがテレビに初登場された頃というのよく覚えてているけれども、

まさに衝撃的なデビューだったし、

従前にはなかった「吟遊歌人」の登場という趣であった。

歌謡曲の世界にありながら、物語が唄える歌手として異彩を放つ存在となった。

歌謡曲の世界といっても、

何でも唄えば良いという世界であるはずもなく、

公序良俗・醇風美徳という社会規範を当然に踏まえなければならないから、

苦しいとか、哀しいとか、恨めしいとか、憎いとか、死んでしまいたいとか、

様々に否定的な感情の表現は許されるのだが、

刃物を振り回すといった直接行動を無批判に描写することは、決して許されない。

作詞家は、その物語をギリギリまで言語化し

、歌手は、ギリギリまで唄い表現するという、

そういう野心的な一曲なのであった。

作品として完成されたとしても、

商品としてレコード化されて発売されないとか、

お茶の間のテレビには登場させないとか、

そういったハードルを乗り越えて世に出された作品なのである。

 

北原ミレイさんは、山崎ハコさんの「白い花」をカバーされている。

魂の救済という思いてーながどう唄われているか、

是非一度視聴していただきたい。

 

唄;森田童子「僕たちの失敗」

紹介画像によると、ヘビメタのネーチャンかと思うと、そうではなく。

童子」というから少年かと思えば女性で、

唄を聴くと、か細い繊細な声で淡々と歌うという、

何とも奇妙な存在なのである。

だからかどうか、

歌曲それ自体が、

そもそもの曰く因縁だとか原因理由がどうとかは語られなくて、

ある瞬間を限っての、そこに生じた感慨を無感情に表現するという、

言い換えれば、瞬間を捉えることで時の流れを完全に忘却するという、

現実の時の流れを無視するという心理作用のたまものなのである。

だから、自分の感性世界には、他人が介入することは許さないという拒否感が漂うし、

世間に媚びない姿勢という姿勢が、逆に、信者を周囲に集めることになる。

 

俗世の見方という以外にないのだが、

よほど良いご家庭で生まれ育ったお嬢さん、という印象を受ける。

歌詞の、ある種のニヒリズムを含んだ言葉に対して、

曲の方はといえば、リリシズムに満ちた完成度が高い。

多分、この歌手の本性というものが、もっと別な所にあるんだろうと、

思っているのである。

 

唄;山崎」ハコ「白い花」

山崎ハコ]さんのデビュー曲は、

五木寛之原作の小説「青春の門」の映画化作品に因む「織江の唄」で、

メジャーデビューされたのだったが、

薄倖の少女の過酷な人生の健気な愛を切々と唄うという形で、

その歌唱の「冥さ」が人々の共感を誘ったのであった。

 

この「白い花」も、

アコースティック・ギター一本で伴奏するといった簡素なものだから、

しみじみとした叙情性が伝わってくる。

ただ、曲想は、

俗世の泥田に一本咲き立つ刃清浄な蓮の花、という、

日本古来の法華経理解の伝統的な発想に寄りかかったものでアルから、

何か独自な歌唱世界が広がるというものではない。

この先をもう一歩踏み込んだところをどう描き表現するかが、

この歌い手に求められるところなのであった。

 

 

 

 

 

 

唄;葛城ユキ「ボヘミアン」

最初にこの曲を聴いたとき、

突飛な衣装デザインに身を包んで、

特徴的なダミ声〘というか、ドスの利いた声〙で、

いきなり「ボヘミア~ン」とかましてくるから、

本当にびっくりした。

しかしながら、余裕を持たせた、ある意味遊び心の籠もった歌唱だったから、

歌唱力という点では傑出した実力の持ち主だと思った。

個性が際立ちすぎて、

ある意味で「色物」]的な扱いがされたのは不当なことであった。

今日に至るまで、葛城さんを超える歌手にであったことはない。

 

さて、唄の内容は、行きずりの恋の破綻、である。

その新発想だと言えるのかも知れないのだが、新発想だと言えるのかも知れないのだが、

言い方を変えれば、単なる女性好きの軽佻浮薄な浮気男だったかも知れない。

そこの尾頃が明確ではないので、

女性の側の、過剰な自己投影だったかと思わせるものがある。

 

男女間の別れ唄という物は、歌謡曲では定番中の定番で、

同工異曲なものが夥しく公表されてきているが、

唄;コロンビア・ローズ「どうせ拾った恋だもの」は、

負けん気の強い女性の唄であったし、

唄;リリィ[私は泣いています]では、

ひたすら別れを悲嘆する面倒くさい女が描かれている。

本当なら、逃げる男を笑い飛ばすような歌曲が望まれるところだが、

そんな曲はまるっきり売れないだろうな。

 

唄;本田美奈子[1986年のマリリン

いかにものアイドル歌謡の歌い手のように見えながら、

いわゆるアイドル歌謡から大きく超越した歌唱力の持ち主で、

未だに燦然とした輝きを失わない歌手のお一人である。

 

その歌唱の特質は、

唄うべき歌曲の持つ力を存分に引き出すという点にあって、

従って、歌い手として妙な自己主張をしないという点にある。

聴き手の側として、その歌曲の世界に浸りきることができる。

勿論、聴き手に対して妙に媚びるということもない。

 

今に至って、惜しい才能を喪ったたものでwる。

 

 

 

 

 

唄;風「22才の別れ」

歌詞全体を見渡すと、

女の側に嫁入り話が持ち上がって、

男の側にそれを引き留める力がなかったものだから、

泣く泣く別れに至ったということであるらしいのだが、

何とも旧い話ではあるのだ。

親が勧める縁談が女性にとって最も望ましいという決め事でもあるのだが、

女の人生はその連れ合いの男次第という現実判断もあるのだが、

そういった事々は、実際に踏み切ってしまわないことには分からない。

 

22才の別れというと、

おとこにとって、大学卒業ら就職へと言う人生の節目にあたって、

旧い同棲関係なんぞは清算してしまおうと密かに企図するわけだし、

女の側としても、

卒業を控えて、まともな就職もできない男を見限るタイミングででもある。

だから、22才の別れと言っても、

叙情的なものであると決められずに、

男女共々現実的な利害判断が錯綜する局面であって、

世間的な批判を招かないような綺麗な形に整えなければならない。

だから、世間的な理不尽が若い二人人生を人生をぶち壊したから、

どちらが悪いという類いの話ではないという話として落着する。

 

私は、これを決して叙情歌とは理解しておらず、

卑怯者の戯れ歌として、先ず理解したのだが。

 

しかしながら、もう少し深読みして、

同棲を解消するならするにしても、

もう少しまともな言い方なり状況説明が求められるところ、

こんなきれい事で終始して許されるのか?という、

同世代人に対する強烈な批判なり皮肉が込められているとも理解できる。

伊勢正三という天才肌の作者がただ単に綺麗なだけの曲を作ったとは見做しがたく、

つい、言わなくても良いことを言ってしまった。