昨日のブログに続き…



今日は植木裕子さんのnoteをシェアさせてもらいます!



私も昔は「良かれ」と思ったことを人によく勧めていたりしました。その時期は他人に強要されたり、コントロールされる事が非常に多かったです。


昨日も書きましたが、それは「他人」ではなく、他人を通じた自分自身であり、様々な外側の現象は実は「鏡に投影された自分」だったりします。


コロナ禍の時に、私がコンクール審査員を務めていた際に


「医療関係者が可哀想だと思わないのか!」


と激しく叱責された事がありましたが、それも叱責した人が


「こうあるべき、これは許せない、自分の意見が絶対であり、それ以外は認めない、自分が良いと思う事は周りも受け入れるべきだ!」


と言う「無意識の信念」が私にもあり、その波動が共鳴していたに過ぎなかった…と言うのは、今ならよく理解出来ます。


バレエの指導を長年続けていると、どうしても白黒ハッキリとつけたがる習慣が当たり前になっていて「良かれ」と思うものを生徒に要求したりするのが「愛情」だと信じてしまうのですが、実はそれが一歩間違えると「愛情」ではなくて「余計なお節介」にもなる危険性がある事がわかります。


誰かに助けを求められたり、指導をお願いされたりした場合、こちら側の「良かれ」と思う必要以上のアドバイスが「お節介」になることもあるので、まずは


「自分が自分にプレッシャーをかけて、余計なお節介をしていないかどうか」


を冷静に判断してから、必要であればアドバイスはしますが、どんなに親しい間柄だとしても必要以上のアドバイスはしないようにしたい、と思うようになりました。


例えば、どんなに私がこの場所でくつろいでいたにせよ、他人に対して


「ここに行きなさい!」


なんて強要する権利は一切ないですよね?人間関係も同じ。



様々な社会のトラブルを観ていると、結局は「必要以上にお互いを干渉して、価値観の押し付け」による摩擦が原因のように感じます。


最後に裕子さんの言葉を引用します。


助けてくださいと言われたら、自分の体験談や『自分の感じ方はこう』みたいなシェアはしていいと思うんだけど


あなたが居るところ、そんなにいい所なの?!


助けてあげるってむっちゃ上から目線だよ


本当は、『私ってすごい!話を聞かせていい氣分になりたい』んじゃね??


本当にその通りです。自分が好きなものをシェアするのと「あなたのためだから」と自分の価値観や正論を強要するのは違う。


人それぞれの生き方を、それぞれが干渉し過ぎなければ、お互いの「自分軸」を尊重しながら、あたたかい世界が生まれるのではないか?と思います。


左右木健一