「LGBTが気持ち悪い人の本音」を無批判で垂れ流す危険性④~記者の姿勢を問う | 明日を夢みて

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男性が好きな男性です。試される大地に住みながら、ゲームをしたり、本を読んだりして、試されています。チョコレートのように甘~いブログを目指します(*´ω`)

 長々と「LGBTが気持ち悪い人の本音」について批判を書きましたが、一番の問題は、こんな記事を書いてしまう記者の姿勢にあると考えます。

 

 途中でも指摘しましたが、取り立てて目新しい論点は無いんですよ。

 「LGBTが気持ち悪いのは本能」とか、手垢の付いた言い訳です。

 

 あえて言えば、「差別主義者かと思って会ったら、意外と良い人だった」というのが新鮮に感じられる人が居るのかもしれないですね。

 しかし、これも、ヘイトスピーチを撒き散らす連中も、実際に会えば普通の人だったということが指摘されたりしているので、目新しさはない。

 

 普通の人が、普通に、差別する。

 ネット上にはヘイト発言が溢れ、書店に行けば、ヘイト本が山積みになっています。

 差別が日常に浸透しているように感じます。

 LGBTのみならず、いかなる種類であれ差別が蔓延する社会は、やはり不健全であると思います。

 

 この記事の「LGBTが気持ち悪い」というタイトルも、ものすごいインパクトですよ。

 自分のセクシャリティに悩んでいる人が見たら、どれほど衝撃を受けることか。

 

 例えば、まっとうな新聞記者が、「障害者は気持ち悪い」「黒人は気持ち悪い」という意見を報じますか?

 例え報じたとしても、批判的なニュアンスとなるでしょう。

 なのに何故、対象がLGBTになると、差別する側に寄り添った形で発信されるのですか?

 

 ここに、記者のまなざしが隠れているように感じます。

 本人は意識していないかもしれませんが、「LGBTに対してだったら、差別的な意見も発信して良い」と考えているんじゃないですか?

 

 あるいは、ありきたりなLGBTと一線を画そうとして、変な方向に行ったんでしょうね。

 こういった記事が発信される影響というものを、きちんと考えなかったのでしょうか。

 

 結論が、「Bさんと会って、話して、よかったな」とか、浅はかすぎる。

 当の記者は、反応が大きかったことにはしゃいでいるようですが、結果的に差別に加担したという認識は無いようです。

 

 この記事は、「LGBTのテンプレ考」という連載の最終回だったようですが、典型的な差別発言の記事で締めくくりになったとは、皮肉としか言いようがありません。

 

 LGBTブームも、いつまでも続くものではありませんから、近い将来に揺り戻しが来るだろうとは思っていましたが、そろそろ冬の季節に備えなければいけないのかもしれませんね。

 ブームがあろうがなかろうが、当事者は生きていくしかありません。

 

 【ポイント】
 ■差別が蔓延する社会
 ■何故、LGBT差別する側に寄り添った発信が許されるのか?
 ■「LGBTのテンプレ考」の最終回が、典型的な差別発言の記事だった皮肉
 

 (完)