「今、いのちがあなたを生きている」 | 船橋SE夢追人のブログ

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 私は長野県で生まれ、3歳から結婚当初まで東京下町に住み、子供の成長に合わせ、千葉県船橋市に移住し25年経ちました。

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上記のテーマについて

「親鸞聖人七百五十回御遠忌」のテーマのようです。
色々、調べて見ましたが、意味ははっきりわかりません。
なかなか、深く難しいようです。
その中で、比較的に分かりやすかったのが、下記です。

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「今、いのちがあなたを生きている」
私の中の“いのち”は、私のものでもあり、みんなのものでもある。
自分ひとりの所有物ではない。

 生きとし生けるものすべてが持つ同質の“いのち”が、
  過去から連綿と伝わってきた“いのち”が、
   今あなたの中を生きている。

「~西蓮寺掲示板のことば~」の一説です。

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真城義麿(大谷中・高等学校長)氏の話です

 私たちは日常的に「私のいのち」と、思い語っていますが、
はたして「私のいのち」ということがあり得るのでしょうか。
「私は生まれたくて生まれてきたのではない」といいますが、
「私は」ということでは、その通りです。
生まれてきたのは、いわばいのちそのものであって、
そのいのちの上に少しずつ私(自我)が確かなものになっていくのでしょう。
ところがいつのまにか「私のいのち」との錯覚をもつようになってしまいます。
 
 近代西洋では「われ思うゆえにわれあり」と、
人間の頭脳・知性理性のはたらきを先に考えますが、
まずいのちある者としてこの私が今ここに存在しているということが
不思議のはたらきで成立していて、
その上でその私が考えることができるのでしょう。
「いのち」は生まれたくて生まれ、生きたいと生きているに違いありません。
ですから、生まれたもので生きたくないものは一つもない、
つまり生きたいものだけが生まれてきていると思います。
この私は、いのちに選ばれて人間として生まれ、今、
いのちをお預かりして生きているのでしょう。
そして同じ生きるのなら、人間として私として、
あらゆるいのちとともに活き活きと生きたいと、
殺したくも殺されたくもないと願っているのでしょう。
しかし、そのいのちを預かる「私」は、
生まれて生きる意義や方向を見失ってしまっているようです。

 「いのち」とは、生きようとする願いやはたらきや力ですから、
あらゆる「いのち」は、
つながりながら活き活きと響き合い生かし合う世界(浄土)へと向かっています。
その点で、「いのち」は「仏性(真実のあり方を求める潜在力)」であり、
それを備えて生きる私たちは、私が私として生きることを私事にはできません。
いのちを含めた私の私有化は許されません。
いわばパブリックな私を生きている人間として、
私を生きる責任があるのです。

 その私が現に生きているという「今」を自覚したとき、
いのちは私の人生を通してどうなり、どうありたいのかという、
いのちから私への呼びかけが聞こえてくるでしょう。