若狭「小浜線・敦賀から高浜」へゆく | ブログ版『大和川水紀行』

ブログ版『大和川水紀行』

大和川流域の自然やイベント、祭事など訪ねた紀行記です。

以前は中池見や気比神宮などを訪ねたが、今回は気比の松原を訪ねた。

 

参考:
近畿水めぐりの旅<敦賀・中池見湿原と越前大野・名水の里>
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel3.htm

 

全国水めぐりの旅<敦賀の名水めぐり>
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel2.htm


気比の松原は長さ約1km、広さ約34万m²に赤松、黒松が生い茂り、夏は海水浴場で賑わう白砂青松の海岸が広がっている。

国の名勝地に指定され、「三保の松原(静岡県)」「虹の松原(佐賀県)」と並ぶ日本三大松原の一つとされている。

「一夜の松原」という伝説によると、聖武天皇の時代にこの地に異賊が来襲した時、一夜にして数千の松が浜辺に出現し、樹上にいた無数のシラサギが風でひるがえったのを異属が敵は数万の軍勢とみて、たちまち逃げ去ったのだという。

 

東方は敦賀港がある。

その途中、西小学校前に敦賀城の案内碑がある。

大谷吉継は幼少期から豊臣秀吉のもとで成長し、本能寺の変の後、豊臣政権を支えた。

1589(天正17)年、敦賀城主となった吉継は敦賀を「城のある港湾都市」につくりかえた。

敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争のおりには兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能し、江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎を作ったという。
1600年の関ヶ原合戦では石田三成とともに西軍として戦いに敗れて自刃し、敦賀城は1615年(元和元)の一国一城令で廃城となった。

城の面影はなくなって「幻の城」となり、「敦賀城」の範囲が伝承されてきた。

来迎寺には敦賀城裏門から移築された中門や客殿には腰高障子(県文化財指定)などがある。

曹洞宗・永賞寺や永建寺は大谷吉継ゆかりの寺だ。


敦賀湊(敦賀港)は古代より大陸に開かれた玄関口として要衝地だった。

北国の物資が京都などへ運ばれる際の中継地として栄え、江戸時代には北前船によってもたらされた財力が、山車をはじめとした地域の伝統文化を維持する資金となり、明治以降の近代化の礎となった。

1869(明治2)年、日本初の鉄道となる4路線の一つとして、京都-敦賀間の鉄道建設が決定され、明治15(1882)年に日本海側初の線路が敦賀に敷かれた。
明治45(1912)年に欧亜国際連絡列車の運行が始まり、新橋(東京)-金ケ崎(敦賀)間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でウラジオストク(ロシア)へ、そこからシベリア鉄道でパリ(フランス)まで行くという路線が確立されました。
さらに昭和32(1957)年には日本初となる本格的交流電化が完成した。

駅前にはその記念碑がある。

敦賀は「港と鉄道」とともに歩んできた。

今春、北陸新幹線が敦賀まで延伸され、駅前は大変貌していた。

通りには松本零士の「銀河鉄道999」のモニュメントが新たにできて「鉄道」の街らしくなった。
敦賀からさらに新大阪駅への延伸は敦賀駅~小浜市~京都駅に至る「小浜・京都ルート」に決まった。

さらに京都~新大阪間のルートも京都駅~松井山手付近~新大阪駅に至る「南回りルート」に決まったものの、具体的な建設計画は決まっておらず、開業予定時期も未定だ。

 

参考:
敦賀観光協会
https://tsuruga-kanko.jp/

 

小浜線上中駅より歩いて約15分、名水百選に指定されている「瓜割の滝」がある。

その近くに天徳寺があり、水源地は注連縄で囲まれた神域だ。

古くから「水の森」といわれ、五穀豊穣、諸病退散の役があるとされていた。
あたりの岩や樹木は苔むし、その隙間から水が激しく流れ出している。

瓜をつけたところあまりの冷たさに瓜が割れた、というところから「瓜割の滝」と名づけられたそうだ。

ほぼ年中12℃で一定だという。

水中の石には、この水質水温でしか生育しないという紅藻類が生育しているそうだ。


小浜線東小浜駅から南に歩いて約1時間で神宮寺に着く。

ここが毎年3月2日の修二会の後、午後6時から行われる「お水送り」神事の出発地となる。

その舞台はさらに南に2kmのところにある遠敷川の川原である名水百選「鵜の瀬」だ。

 

参考:

近畿水めぐりの旅

<舞鶴から小浜へ水めぐり>

<若狭湾めぐり 鵜の瀬の「お水送り」>  
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel3.htm

 

若狭高浜町には8kmもの遠浅の海岸に海水浴場が点在している。

その一つの城山海水浴場のある城山公園は戦国時代に逸見昌経により築城された高浜城の跡地だ。

海岸部には高浜町の名勝「明鏡洞」は穴の彼方に見える水平線が美しく、その水平線が鏡に映った別の景色のように見えることから「明鏡洞」と名づけられたいう。

公園内には遊歩道が整備され、さまざまな奇岩や若狭湾などの眺望が楽しめる展望台があり、長い年月をかけて日本海の荒波が作り上げた「八穴の奇勝」と呼ばれる八つの洞穴を望める。

内浦地区は四季折々の景色を楽しめる漁港とともに、その周辺のまちなみは細い路地が多く、漁村の風情が残っている。


子生川(こびがわ)河口に建つのが西福寺はその開創は高浜城築城時期の永禄年間といわれている。
かっては、お寺の前は船着き場だったという。

 

古代から平安時代まで天皇へ海の幸を献上していた国(地方)は「御食国(みけつくに)」と呼ばれ、若狭地方はその一つだった。

平城京跡から発見された贄木簡(にえもっかん)には高浜町の地区名が記入されたものもあり、干物やすしなどの海産物が多く献上されていた。

鉄道がなかった時代は若狭から京都まで海の幸の中でも鯖の運搬が多かったことから、近年になって「鯖街道」と呼ばれるようになり、文化交流のルートとしても重要な役割を果たした。

高浜町は「西の鯖街道」の起点され、多くの海産物が京都へと運搬された。

参考:
https://wakasa-takahama.jp/
 

町内にいくつもの海水浴場を有する高浜町は、かつて、日本有数のリゾート地として賑わった。

大阪湾岸の海水浴場が汚染で次つぎ閉鎖された頃の昭和40年代前半、若狭・丹後の日本海側の海水浴場へ向かう臨時列車、急行「わかさビーチ」が運行された。私もその利用客したことがある。
小浜線は2003年に電化されたが、車需要が高まっている小浜線の運行規模は縮小している。

電化前に走っていた大阪や名古屋から小浜線へ直通する急行列車や快速列車は廃止された。

若狭湾沿岸に点在する関西電力美浜原発3号機と高浜原発1~4号機について、地元住民らが関電に運転の差し止めは福井地裁が却下する裁決を出した。

北陸新幹線が新大阪駅に延伸されるころには、さらに原発の老朽化が進んで、廃炉がされているかもしれない。

その時、原発とともにあった若狭湾沿岸の町はどうなっていくのか。

原発事故の際は住民の重要な「逃げ足」となる鉄道は、経営主体はともかくとして廃線されてはならない。