岡山「備中松山城」へゆく | ブログ版『大和川水紀行』

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大和川流域の自然やイベント、祭事など訪ねた紀行記です。

備中・倉敷と県北・新見を結ぶ伯備線・備中高梁駅を降り立つと、「備中の小京都」と呼ばれる高梁だ。

山々に囲まれた盆地の中央部を高梁川が流れ、かつては備中の中心地として栄えた藩政時代の名残が広がっている。

その市街地の北側にそびえる「臥牛山(がぎゅうざん)」に築かれた備中松山城は、月下旬から4月初旬に雲海に包まれた「天空の山城」とも形容される観光スポットだ。

 

全国には天守が残る城が12城ある中で「山城」としては備中松山城だけだ。

その木造の天守は1683年から残っているといわれ、岩盤の上に築かれた二重櫓(やぐら)、土塀の一部とともに国の重要文化財に指定されている。

本丸は1997(平成9)年に五・六の平櫓、南・東御門、土塀などが復元された。

 

「臥牛山」は北から「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなり、

その現存する「備中松山城」は小松山にある近世の城郭部分で、鎌倉から戦国時代にかけて使用された中世の城郭は最北の大松山に砦が築かれたのが始まりだ。

時代とともに「臥牛山」全域に広がり、「戦のための中世城郭」から「天守や石垣を備えた近世城郭」へと役割を変えていった。

 

その「大松山城跡」は中世の城郭としては大規模なものだ。

その近くには石垣に囲まれた「大池」があり、江戸時代の絵図には池に屋根がつけられて船が描かれていた。

「血の池」と呼ばれて刀を洗ったとも、山城の貴重な水場だったともいわれ、用途ははっきりしていない。


戦国時代には備中松山城は毛利氏の東方進出の拠点となり、備中では織田勢との勢力争いが繰り広げられた。
関ヶ原の戦いで破れた毛利氏が防長二国に退き、江戸時代には備中国奉行として赴任した小堀正次、政一(遠州)父子が修改築して備中の要衝としての役割を担ったという。

遠州は築城とともに作庭の名手でもあり、備中兵乱で荒れ果てた城の代わりに山麓の頼久寺を仮の館として政務を行い、その時に庭園を作庭した。
頼久寺は1339年に足利尊氏が安国寺として建立した禅寺で、禅院式枯山水蓬莱庭園「鶴亀の庭」は国の名勝に指定されている。

愛宕山(あたごやま)を借景に白い砂で海の波を表現し、鶴と亀を模した石組みを配している。
山麓には武家屋敷が並び、頼久寺や龍徳院、巨福寺などが並ぶ寺町を流れる伊賀谷川(紺屋川)に沿って東に上った丘陵地にある吉備国際大学に架かる橋下に水車がある。

備中松山藩六代藩主・板倉勝職(いたくらかつつね 1803-1849)が建てた別邸に隣接して水車があったことから通称「水車」と呼ばれた。

その遺構調査で水車跡の石組みが発掘されている。

また幕末に藩政改革をすすめていた山田方谷(ほうこく)は元締役を辞した後も藩政に参画した時にこの「水車」を城下滞在時の宿舎にした。

 

元親池の堤の上に石碑は1575年の備中兵乱で落城した松山城主・三村元親が切腹した時の辞世の句が残されている。

 

紺屋川・高砂橋のある伯備線の踏切から高梁川に流れ込む紺屋川は備中松山城の外堀の役割を果たしていた。
現在はその河畔には美しい桜と柳の並木道が続き、「日本の道100選」に選定されている。

 

古い商家の並ぶ本町通りは城下町の町割りの中で最初にできた通りといわれ、今でもその名残をとどめている。

高梁市商家資料館となっている池上邸は享保年間に小間物屋をはじめとして両替商、高瀬舟の船主等を経て、醤油製造で財をなした豪商だった。

 

紺屋川が流れ込む高梁川には高瀬舟が往来した。

1642年から城主となった水谷氏は城下の町割や城の修築などで藩の基礎を築き、高瀬舟路や玉島新田の開発など藩政の確立に尽力した。

その子の勝宗は高瀬通しの開削に努めた。

1873(明治6)年に廃城令が出されて全国の多くの城で天守や建物が取り壊された。

備中松山藩の御根小屋(藩主の居宅、現在の高梁高校)などは破壊されたものの、山の上にあった天守や櫓(やぐら)、門などはそのまま放置されて今日にその姿を残した。
 

参考:一般社団法人高梁市観光協会
「高梁市観光ガイド」
http://takahasikanko.or.jp/

 

天空の城山 備中松山城

https://www.bitchumatsuyamacastle.jp/