丹波「福知山線・福知山から丹波篠山」へゆく | ブログ版『大和川水紀行』

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大和川流域の自然やイベント、祭事など訪ねた紀行記です。

JR福知山駅から東へ徒歩約15分で福知山城だ。

天正7年(1579年)頃、明智光秀が丹波を平定した際に築城したといわれている。

天守閣入口前にある「豊磐(とよいわ)の井戸」は城郭の本丸内の井戸としては日本一深い50mで、由良川の川底より深いという。
ちなみにこの井戸には二ノ丸にあった横穴に通じる抜け穴があるという言い伝えがあるという。

天守台の石垣には近隣の社寺から集められた五輪塔や宝篋印塔などの転用石が多数使用されている。
明治6年の廃城により福知山城の建物群が次々と取り壊され、城門は正眼寺、法鷲寺、明覚寺などの山門として移築されて残っている。


明智光秀は由良川の流れを変えて城下町を整備し、水運業の発達と街を水害から守るために堤防を築いた。

さらに堤防の前に水流の衝撃を和らげるために「蛇ヶ端御藪(明智藪)」を設けた。
そしてこのあたりに築かれた舟渡で多くの物資が積み込まれて京都や大阪へ運ばれた。
 

由良川左岸堤防下に福知山市治水記念館がある。
たびたび地域を襲った洪水の記録や被害、それに対する治水に取り組んだ軌跡などの資料が展示され、今後の水防のあり方を伝えている。

建物は明治10年代に建てられた町家を改修したもので、明治から大正・昭和にかけての商家のたたずまいとともに、屋根裏には水害時の避難場所となる大きな空間を設け、避難時の荷揚げ用滑車など、水害に対する備えていた工夫が残されている。
 

参考:福知山市治水記念館
https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/2009.html
 
久昌寺の御手洗いに「トイレの神様」が祀られている。

 

丹後街道から城下町への入口付近にある高良厄除神社は「厄神さん」として親しまれている。

水神が祀られており、元々は、水害に苦しむ人々の安心立命のために建てられたという。
境内にはかつて丹後口付近にあった「京都・大坂」と「丹後・但馬」への分かれ道を示した道標が移設されている。

御霊神社は元々、宇賀御霊大神を祀っていたが、江戸時代に福知山で頻発した火災、水害、地震など災害が「光秀の祟り」として本能寺の変から100年以上経った1705年に光秀の霊が合祀された。
境内には全国でも唯一の「堤防」をご神体とする堤防神社があり、夏に「堤防まつり」が営まれている。
 

参考:

近畿水めぐりの旅<福知山の「堤防まつり」>
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel5.htm

 

石生駅から徒歩約10分で水分(みわか)れ公園がある。

日本海と太平洋・瀬戸内海に分ける中央分水界は本州で延長約1800kmある。

この公園は標高95mの日本一低い中央分水界で、その延長約12501250mの最東端にある。一方は高谷川、柏原川、加古川を経て瀬戸内海へと注ぐ。

もう一方は細路を集めて黒井川となり、竹田川、福知山市で由良川と合流して日本海へ注いでいる。

高瀬舟が加古川や由良川を往来し、氷上地方はこの地理的条件を利用して瀬戸内と日本海を結ぶ中継地として栄えたという。

参考:

弘法ゆかりの水<氷上の独鈷の滝と神戸の弘法井戸> 
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel4.htm

 

「丹波国」は大まかに京都府の亀岡盆地、由良(福知山)盆地と兵庫県の篠山盆地からなり、山並みで隔てられて水系の異なる川が流れている。

その地勢が「丹波国」の複雑な歴史を作ることになったという。

 

由良川水系を越えると加古川水系だ。

谷川駅から加古川線を行くと、加古川で名勝とされている闘龍灘がある。

 

近畿水めぐりの旅<加古川・闘龍灘>
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel5.htm

 

福知山線を行くと、下滝駅の南側を流れる篠山川は兵庫県と京都府境の雨石山西麓を源とし、篠山盆地に出て丹波篠山市街を潤し、丹波市山南町井原付近で佐治川、加古川へと注いでいる。

 

下滝駅から東へ徒歩約10分の河床の篠山層群から2006年に恐竜「丹波竜」(正式名称はタンバティタニス・アミキティアエ)の化石が発見された。

尾椎という尻尾の骨から独自の特徴があり竜脚類の新属新種で長い首と尾を持つ全長が十数mの植物食恐竜と推測された。

日本で見つかった中では最大級の陸上生物ではあるものの、竜脚類の中では小型の部類に入るという。

中生代前期白亜紀(約1億1000万年前)の篠山層群は丹波市山南町から丹波篠山市の篠山城や篠山口駅にかけて広がっており、「丹波竜」のほかにも5種類の恐竜類の歯や卵殻化石や丹波篠山市からもトロオドン類や角竜類、哺乳類、トカゲ類などの骨化石が次々と採集されている。

 

篠山川を上って行くと巨石が点在する川代渓谷だ。

最終氷期(約7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期)までの篠山川は傾斜の緩やかで排水が悪く、当時は篠山川の下流にあった武庫川に当野付近で堆積して分水嶺は盆地南部に移動していった。

最終氷期までの武庫川は篠山川の下流だった。

 

篠山川やその支流の堤に桜並木が広がり、丹波篠山市内の堰堤のほとんどの区間にソメイヨシノが植樹されている。

兵庫県が日本海から瀬戸内海まで(武庫川〜篠山川〜加古川上流〜円山川)約170km(約5万本)の桜を植樹した桜でつなぐ「ふるさと桜づつみ回廊」の事業で整備され、市域を越えて植栽され、お花見など市民の憩いの場や交流の拠点になっている。


篠山城は内堀と外堀があり、本丸と二の丸があって東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていた。

築城当初より天守台はあったものの、天守が建設されなかったのは石垣や堀などの城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためという。
その城跡は「日本名城百選」とされ、桜の名所とされている。


1609年に築城されて間もなく城下町が形成された。

その中の「河原町」は商業の中心として栄え、千本格子や荒格子、袖壁、うだつなどの妻入商家が特徴の「河原町妻入商家群」や「御徒士町武家屋敷群」はともに江戸時代の面影を残しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 

篠山口駅前東方を流れる田松川は、平地(海抜195m)を流れている。

そもそもは、山から流れ落ちる水は別々の川となっていたようで、北へ流れる水は加古川へ、南へ流れる水は武庫川へと注いでいた。

それが明治8年に丹波と摂津の物資を運搬するために開削された運河によって「田松川」として両水系が結ばれる、全国でも珍しい一本の川の中に「大沢新の谷中分水界」ができた。

 

武庫川は蛇行を繰り返しながらも次第に南行し、三田盆地を潤していく。

JR武田尾駅から生瀬駅への武庫川渓谷沿いに1986(昭和61)年まで走っていた旧線跡に枕木や砂利道のほかに赤レンガのトンネルや鉄橋などが残り、切り立った崖や巨岩が転がる渓谷美が楽しめる。

その中の一つの「高座岩」には水乞いした竜宮伝説がある。
 

参考:

近畿水めぐりの旅<武庫川・JR廃線跡を歩いて清荒神、中山寺へ>
http://sohofujiu.g3.xrea.com/travel5.htm