なぜ、現代の世界には国民が主権を保有する「国民国家」が多いのでしょうか?

 それは国民国家が強力な力を持つからです。

 国民国家ほど強力な力をもつ国家体制は歴史上未だかつてありませんでした。

 たぶん、これから先もないでしょう。

 国民国家の発生は必然だったのか、偶然だったのかは議論の余地があると思いますが、国家間の激しい競争の中で国民国家は覇者の地位を占めたといっていいでしょう。

 少なくとも、現在の先進国はほぼ全てと言っていいほど国民国家ですから。



 近代以前に存在した国家は国民国家はほとんど存在しませんでした。

 そのほとんどが、王族や貴族などの一部の特権階級が国家の主権を握っていました。

 それらの特権階級が腐敗し、国家体制が新しいものに取って変わっても、また新たな特権階級が国家の主権を握るだけでした。

 なぜなら、近代以前の国家はそのほとんど経済成長をしなかったからです。

 つまりが、経済のパイの大きさはほぼ一定であり、それを切り分けるのが特権階級の役割でした。

 当然、パイを切り分けられて配られる大衆にとっては、不満が多くあったでしょう。

 その不満を特権階級は軍事力や階級意識などの権威で抑えつけていました。

 とどのつまり、近代以前の国家の良き支配者とは、できるだけみんなの不満が出ないようなパイの配分を行える者だったといえるのです。(他国から搾取するという手もありますが・・・)



 しかし、18世紀のイギリスに起きた産業革命がその仕組みを一変させます。

 産業革命は国民への経済的分業を容易にしました。

 そしてそれは、ほとんど拡大しなかった経済(パイ)の成長を可能にしたのです。

 今までパイを切り分けることが役割だった国家の支配層はそれを成長させる役割にシフトしていきます。

 そして、そのことは封建国家などの古い支配体制が国民国家へと入れ替わる原因となりました。

 

 国家全体の経済成長には莫大な労力や資本力が必要になります。

 一部の王族・貴族などの特権階級だけの力だけでは到底成し得ません。

 国家に属する大衆全体の力が必要となったのです。

 そして、それに必要なのは国民意識(ナショナリズム)をもった大衆が必要でした。

 これこそが「国民」です。

 近代以前の国家には「国民」が存在していなかったと言っても言い過ぎではありませんでした。

 しかし、国家が産業革命によって分業化をはかり経済成長する上で「国民」がどうしても必要でした。

 国家の経済が成長し、その成長が自分の富の拡大につながると考える「国民」が必要でした。

 そして、国民を主役とする国民国家が生まれたのです。


 
 経済の分業化を推し進めた近代の国民国家は当然の帰結として、国家の富も各々の国民に分散することになります。

 一部の特権階級に富が集中することは難しくなりました。

 富の分散と共に、権利と義務も分散し国民全体で共有・保持することになります。

 つまりが民主主義国家です。

 民主主義国家の国民は、国家の経済のパイをより多く成長させ、ひいては自分たちの富も増やしてくれる指導者を選挙で選びます。(または、その富を内外からの脅威から守ってくれる指導者を選びます)

 そして、その指導者が指し示す方針や政策を団結して推し進めます。

 これほど強力な国家体制はありません。

 第1次世界大戦、第2次世界大戦では、その国民国家同士の戦いでした。

 国家・国民の全体が戦争へと立ち向かいました。

 つまりが総力戦です。

 だからこそ、あれほどの被害が出たのです。



 国民は国家が経済成長を続け、同時に自分たちの富の拡大をし続ける限り、個々の国民に直接的に関係がない面識のない同じ国民のためでも税金を払ったり、供給力の一部を振り向けることを許容します。

 逆に言えば、経済が行き詰まり実質的な所得の拡大が鈍ったり、デフレなどの経済収縮が起こってしまうと、ナショナリズム(国民意識)を否定するイデオロギーや全体主義(ファシズム)が台頭してきます。

 これが民主主義の崩壊です。

 なぜなら、国民意識(同朋意識)を共有してこそ民主主義は成立するからです。

 民主主義国家の前提として国民国家があるのです。

 

 では、国民国家の経済が最も成長するのはどういう状態かというと、「適度に富が分散し、経済的中間層が厚く、格差が少ない民主国家」です。

 そうです。デフレに突入するまでの日本の経済状態であり、70年代までのアメリカ経済です。

 先進国において経済に占める消費は、中間層が厚くなればなるほど増えますし、格差が広がると抑制され、ひいては経済成長が鈍化していきます。

 共産主義国家では資本家が否定され、その代わりに生産力向上を政府が担いますが、一部の人間が考え出した設計主義に支配された経済運営は当然行き詰まります。

 ましてや共産主義国家は一党独裁なので当然腐敗し、一部の支配層に富が集中し、富の分散ではなく偏在が起き、経済は鈍化していきます。

 では、そのアンチテーゼとして、西側の諸国は、資本や金融に関する規制をできるだけ緩和するような1970年代以降のサッチャーやレーガンなどの新自由主義によった経済政策に舵をとりましたが、それは結局のところ、一分の資本家や金融家などに富が集中し、中間層が削られ、貧困層が増し、全体の経済も鈍化していきます。

 70年代以降の世界経済の成長の鈍化は、この新自由主義による富の偏在と無関係ではありえません。

 
 
 しかし、市場主義経済を偏重した世界経済を修正するのは並大抵のことではありません。
    
 ですが、リーマンショック後の世界経済はグローバル化から反グローバルへと少しずつですが、歩みを変えようとしています。

 規制緩和をして市場主義経済重視の政策を取るのも国家ですが、それを修正し規制を強化し格差是正をするのも国家です。

 それは国家でしかなし得ません。

 グローバル企業にも、国家同士がつくる国際機関にも出来ません。

 出来るのは、国民の信託を受けた国家政府のみです。

 

 そして、国民国家の存在意義が個々の国民の富の拡大で有るとすると、経済成長をしない国家は国民国家で有り続けることが出来ないとも言えるのです。

 そして、民主主義の前提が国民国家の存在であるので、経済成長をしない国家は民主主義システムを維持することはできません。

 日本は1998年から本格的にデフレに突入し、15年間経済の縮小が続いています。

 この15年間において、日本の首相は10人も替わっていきました。

 経済成長と政治(民主主義)が密接に関わっている証左でしょう。

 今の日本はとにかく経済の成長に重点を置いた政治に戻さなければ、長期的には民主主義システムの崩壊に繋がる恐れすらあるのです。

 次の総選挙・・・格差を是正し、経済を立て直し、力強い経済成長へと導く政権をつくりあげることを日本国民には求められると考えるわけです。

 

 アナーキズム(無政府主義)について考えました。
 アナーキズムに関しては、あらゆる主義主張が存在しており、右から左まで様々です。
 共産主義・社会主義の観点からのアナーキズム。
 個人主義・自由主義の観点からのアナーキズム。
 それぞれ、考え方が違います。
 
 どちらにせよ、政府=国家による国民への支配の否定に行き着くわけです。
 
 アメリカの保守と言えば、リバタリアン(自由主義)ですが、そこから生まれるのがアナーキズムとは言わないまでも、それに近い考え方であり、「小さい政府」の肯定です。

 しかし、「小さい政府」が国家による規制の縮小・緩和であるとするとしたら、その少ない規制しかない社会を維持するのにも国家が必要なのです。
 でなければ、個々人が自分勝手に規制を乱立させることになります。
 国家には規制を個々人に勝手に作らせない役割もあると考えるべきです。

 それも否定し、国家の支配そのものを否定するとしたら、分離独立しかありませんが、それは新たな国家の創造であり、その場合、ほとんどの独立国家がそうであるように、「大きな政府」となります。
 独立分離した国家とは不安定な存在であり、強固な中央集権国家でなければ、独立直後の荒波を乗り越えることは出来ません。

 それもいやで、個人主義を貫いて家族だけで無人島に引っ越すのもいいでしょう。
 しかし、それだって、その家族は小さな国家と考えれば、そのような無人島で生き残るには家族のリーダーが主導権を握って全てを統べるほどの強権が無ければいけません。
 立派に「大きな政府」です。

 では、共産主義・社会主義によるアナーキズムではどうでしょうか?
 これらのアナーキズムは社会平等主義という現政府を超越するシステムがあり、そのシステムに沿って国民共同体を運営されれば、幸福な社会が実現できるという考え方です。

 いわゆる設計主義です。

 現行制度に基づく国民国家の否定です。

 しかし、ソ連邦の崩壊でこの社会平等主義によるアナーキズムはほぼ否定されました。
 少なくとも実際的ではないと考えますし、一つのイデオロギーに支配された政治体制は腐敗を約束されたものであると、私たちは学びました。

 私自身、アナーキズム自体、空想の産物、としか思えません。
 そして、アナーキズムを指向する階層は比較的安定した社会で、比較的金銭的に余裕がある階層の言葉遊びにしか過ぎないのでは?とも思えるのです。
 少なくとも、貧困で今日食べるのも困るような階層の人々が考えるようなことでは有りません。

 貧困層の不満は「反政府」になっても「無政府」にはならないからです。
 政府が無くても自分の生命や財産の安全を守れると考える人たちしか、アナーキズムを指向しないと考えるわけです。

 考えてみれば、中学生のときに詩を大量に作っていました。
 では、大人になるとどうなのか?というと、まったく詩など書いていません。
 なので、久しぶりに詩を作ってみよう・・・そう思い立ったわけです。
 深い意味は本当に有りません。
 ただ何となくです。
 では、成人して初めての「詩」です。



「死」

 人の真理とは「死」のみであろう
 それには情感はまったくない
 死神という存在がいたとしたら、
 いかに公平な存在だろうか?
 金持ちにも、
 貧者にも、
 権力者にも、
 愚衆にも、
 「死」は与えられる

 「死」と「生」の間には明確な境界が有り
 神ならざる人の身としては
 圧倒的な恐怖心と
 わずかな好奇心によって
 遠くから
 そして近くから
 その境界を眺めるしかない

 その境界を触れるのは一回のみ
 それが人の真理であろう




 のっけから、なんて暗い詩なんでしょうw
 私が人生で一番知りたいのは「死んだらどうなるのだろう」です。
 わたしは無宗教と言って差し障りが無いほど、どの宗教にも信心はありません。
 ただたんに、「死」に対して最大の興味があるのです。
 
 まあ、いつかは必ず私も死ぬので、期待してその時を待ちたいと思います。