メールマガジン(71) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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さあこの日を目指してやってきたと
言ってもいい、地元「高知国体」が
やってきました。

いろいろなことがありました。

そしてこのチームで戦う最後の国体
にもなりました。

さてさて、どんな戦いになったので
しょうか。

それではご覧下さい。

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■平成14年(その2)
■編集後記

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■平成14年(その2)
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いよいよ高知国体が始まりました。

高知国体のおかげでここまでやってこ
られたということもありましたが、高
知国体のおかげでいろいろなゴタゴタ
に巻き込まれもしました。

少年男子と成年男子はダブル優勝を期
待されていましたし、地元開催の有利
さもあって、勝って当たり前という雰
囲気すらありました。

ただ、この地元というやつが問題やな
と私は思っていました。

さて、実際の戦いはどうだったのでし
ょうか、振り返ってみましょう。

この頃には昔の国体で見られたような
地元が最低準決勝に行くような、画策
された抽選は出来なくなっていました
ので、地元のゾーンに弱い県が集まっ
ていませんでした。

あくまでも私の個人的な意見ですが、
あまりにも実力のない者が優勝するな
どということはどうかと思いますが、
国体に向けて準備でご苦労された役員
や地域のみなさんを考えると、せめて
準決勝に地元の県が残るような組み合
わせは良しとしてもいいのではないか
と思います。

国体初戦は福井県との対戦でした。
少し格下との試合でしたが、優勝の期
待や地元での国体、思いはいろいろあ
りましたから、やはり緊張感がありま
した。

初回に2点を先制したものの、後は4
回に1点を追加したのみで、西村ー大
木と繋いだ投手リレーで相手打線を0
点に抑え、3-0で勝って、国体をス
タートしました。

残塁の数が9もあり、普通であれば6,
7点入っていてもおかしくない展開で
したが、やはりどこかおかしかったで
すね。

準々決勝は広島県が相手でした。言わ
ずと知れた「日新製鋼」ですね。

これまで何度も痛い目に会わされてき
たチームでしたが、この日は高知県も
初戦とは違っていました。

打線ものびのび力を発揮して、これま
で打ちあぐねた飯田投手から7得点も
取りました。

投げては翌日準決勝、決勝と2試合あ
ることも考えて大木投手が先発してい
ます。

不安視された立ち上がりもすんなり抑
えて、終ってみれば6回に1点は失っ
たものの、危なげない投球で完投しま
した。

これで明日も行けると感じさせた完勝
でした。

この試合の主審は何と日本ソフトボー
ル協会の加藤審判長でした。

加藤さんは結構高齢にもなられていま
したし、日本ソフトボール協会の審判
長という要職になられてからは、マス
クを被ったことを見たことがありませ
んでした。

その方が主審をされる、やっぱり国体
前の不正判定指示の問題が、後を引い
ているのかなと思わせた出来事でした。

翌日の準決勝の相手は愛知県でした。
主体はトヨタ自動車で高知県出身者が
中心選手に多く、地元に錦を飾ろうと
打倒高知県を狙っていました。

このトヨタ自動車にデンソーの村里投
手が加わると、とてもやっかいなチー
ムになります。

トヨタ自動車は絶対的なエースがいな
い、デンソーは攻撃力がない。

これが国体になると補完されてしまう
のです。

それもありましたし、昨日の勝ち方が
あまりにも良かったので、その日の朝
から何か不安を感じていました。

そこで試合前に選手を集めて、

「試合が決まるまでは、なりふり構わ
 ず勝ちに行けよ。」


「地元やから、応援が来ちゅうからと
 格好良く勝とうなんて思うな。」


「負けることが一番格好悪いがぞ。」

と話をして送り出しました。

前日休んで満を持して先発した西村投
手でしたが、ピリっとしません。

それでも何とか抑えていましたが、5
回に連打と死球による2死満塁から、
岡豊高校出身の小笠原選手にタイムリ
ーを打たれて2失点を喫してしまいま
す。

打線は村里投手を攻略できず、完封さ
れてしまいました。

危惧してしたことが起こってしまいま
した。

何とかして出塁しようという感じがあ
りませんでした。

どうしても格好の良いヒットやホーム
ランを打って勝ちたいと思ってしまう
のは仕方のないところです。

もし私が現役であっても、そうだった
と思います。

しかし、先制されて窮地に陥っても選
手の姿に変化はなかったように思えま
した。

それが残念でした。

試合の途中でトイレに行ったら、そこ
に村里投手もいました。

私が現役でやっていた時なら、

「打たしてくれや。」

とか

「そんなに頑張るなや。」

とか何か村里投手の気持を揺さぶるよ
うな言葉をかけたのでしょうが、さす
がにトレーナーとしてそこにいた私は、
何も言えませんでした。

0-2で敗戦、万事休すです。

この国体のために我慢してきたのに、
この国体で優勝してお世話になった方
やご迷惑をかけた方に恩返しをと考え
ていた選手も多かったと思います。

結果は3位でした。

これも立派な成績ですが、私たちには
不本意な結果になりました。

試合後応援に来ていた人の中に、元高
知新聞社運動部長の桧垣さんの姿があ
りました。

少しお話をする時間がありました。

実はこの国体でNHKの放送予定にソフト
ボール競技の決勝戦があって、その決
定をする時にはオーナーがまだ実権を
握っていました。

当然成年男子の決勝戦を放送するもの
だと思っていたら、決定したのは少年
男子の決勝戦でした。

これが弘瀬勝の勘とでも言うのでしょ
う。

少年男子は高知県が決勝戦まで進んで
いました。

弘瀬勝という人は豪快な人と思われが
ちですが、変なところで心配性な人で
した。

闘犬センターの初めの頃、高知県には
多くのチームがあって、県大会に参加
するためには地区予選を勝ち上がる必
要がありました。

その地区予選はシードがあって、さす
がに創部当初の闘犬センターでしたが、
地区予選で負けることはなかなかない
状況でした。

しかしこの弘瀬勝という人は、前の日
から

「おい、明日は大丈夫か?」

と心配してウロウロ。

当日も朝早くから、

「今日はちゃんとやれよ。」

とうるさい人でした(笑)

そんな心配性な人の心配が的中したみ
たいな、準決勝敗退でした。

私は桧垣さんに、

「社長は、こうなることが分かっちょ
 たがでしょうかね。」


みたいなことを言った覚えがあります。

自分の生まれ故郷に成年男子の会場を
作り、そこで優勝してもおかしくない
チームも作って、これ以上ない

「故郷に錦を飾る」

という最高の環境で、テレビ放送を止
めたあの人の勘とはいったい何だった
のか。

そんなことを考えていた試合後でした。

敗戦の翌日の高知新聞の紙面には、

「ソフト成年36歳西村投手」

「全日本背負って18年」

という記事が掲載されていました。

「ソフトボールの全日本エースは敗戦を
 淡々と受け入れた。」


「成年男子のオール高知の西村信紀投手
 にとって2年振りの黒星。」


「当たり損ねの2安打に死球の5回2死
 満塁。失策が絡んだとはいえ、ピンチ
 をしのげなかった自分の投球に納得が
 いかない2失点。」


「昔から言い訳はしない男だ。」

「南アフリカで開かれた2年前の世界選
 手権で、日本に初の銀メダルをもたら
 した西村さんも今月5日に36歳。三
 度目の年男を迎えた。」


「1985年にジュニア日本代表に選ば
 れて以来、一度も全日本の肩書は外れ
 ていない。」


「88年から世界選手権4回連続出場の
 鉄人は18年間、ずっとひのき舞台の
 中央に立っている。」


「その間に全国大会で積み重ねた勝ち星
 は222勝。この日で34敗目が付い
 た。ソフトは多くて年間20数試合。
 プロ野球とは違う。積み上げた実績は
 ケタ外れだ。」


「最速128キロ。野球に置き換えると
 166キロ。88年に日本リーグ、国
 体など国内タイトル総なめのころは、
 西村さんの球をバットに当てただけで
 スタンドから歓声が上がった。」

「そんな全盛期の球威こそないが、代わ
 りに世界一といわれる投球術を身に付
 けて肉体の衰えを補ってきた。」


「投げ勝った愛知の村里投手は、「西村
 さんですか?自分にとって神様です。
 後ろ姿も見えません」。」


「生活は苦しい。自営の鉄工所も不況が
 響いて仕事は微々たるもの。妻子を養
 うために6月末から仕事を求めて、大
 阪ー高知の二重生活が続いている。」

「故障だらけの体もつらい。プレーを続
 ける環境は整っていない。」


「そりゃ、負けは悔しいですよ。でも、
 地元国体も自分の気持の中では通過点
 なんです。」


「来月2日から日本リーグ最終節が待っ
 ている。「必要とされるなら、頑張り
 たい。体は限界に近づいていますが、
 ソフトは好きですから。」」


「残された選手人生の少なさを考えるか
 のように、鉄人は静かに結んだ。」


たぶんこれは高知新聞社が国体用に準備
していた企画だったんだと思います。

ただ優勝ではなく3位に終ってしまった
ので、少し内容が変わったんでしょう。

これまでの闘犬センターの輝かしい成績
は、西村投手の存在なくしてはあり得な
いものでした。

それを作ったのは、この国体で悪役にな
ってしまって表舞台には出られなかった
弘瀬勝氏でした。

これも否定出来ない事実です。

この国体、少年男子の監督は弘瀬拓生さ
ん、少年女子の監督は田中雄二さん、ど
ちらも闘犬センターのユニフォームを着
た人です。

この25年間の間に、それだけソフトボ
ール界に影響力を持った闘犬センターに
なっていました。

すごく長くなってしまいましたので、最
後の試合となった日本リーグ最終節とそ
の後については次号にさせてもらいます
ね。

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これで最後のメールマガジンのつもりで
したが、さすがに最後の国体で、それも
地元でしたので長くなりました(笑)

勝つことは難しい!を思いしらされた
苦い結果でしたが、これも今となっては
思い出です。

さて、次号は本当に最後の戦いの様子を
ご紹介します。