
私の後輩の「高石東陽」という男が、
最近ブログを始めました。
先日面白いブロブをアップしていまし
たので、ご紹介しましょう。
こんばんわ!今日は4時半から9時半
まで仕事でした。
自宅に帰り、家族で食事をし、お風呂
に入り、いま、一息ついています。
昨日は「パシフィックウェーブ」の練
習風景をお伝えしました。
二回連続でサブテーマから逸れていま
したので、本題に戻ります。
「2番好きのソフトボール人生!」
というタイトルをつけたのは私の闘犬
センターソフトボール部での立ち位置
が、山崎浩誌投手、清水源司投手、ス
ティーブ・ジャクソン投手、西村信紀
投手のエース投手陣の控え投手であっ
たという事実があるからです。
昭和56年は世界ユースソフトボール
選手権でも控え投手でした。でも私の
一つ上の投手はみんな素晴らしい投手
でした。
まず最初のエースは山崎浩誌投手。
練習前、練習後、黙々と一人で走る姿
が印象に残るピッチャーでした。
コツコツ努力する選手でした。
土佐土建ソフトボールチームでも、過
去形ではなく現在もコツコツ努力して
いる姿勢は現在進行形ですね!
頑張ってください。ファイトです。
次のエースは清水源司投手。
清水投手の変化球を初めて見た時は、
はっきり言って、「衝撃!」でした。
今まで見てきたどの投手の変化球より、
変化が凄かったんですね。
清水投手の左腕から投げられたカーブ
は右打者の左肘には当たらず、右肘に
当たったのです。
「どんだけ、曲がるんよ!このカーブ!
!」
と驚きました。
続いてのエースはスティーブ・ジャク
ソン投手。まあ、変化球もファストボ
ール(ストレートのことです。)も文
句なしのピッチャーでした。
ある時、洋式トイレで
「トイレット・ぺーパー!トイレット・
ペーパー!!」
と叫ぶ声がしていたんです。
トイレの扉の前にはユニフォームの下
と大きな靴が、乱雑に脱がれていまし
た。
そう、トイレによっぽど慌てて入った
のでしょう。
用を済まして、いざ、拭こうとした時
になかったんですね!トイレットペー
パーが!!
スティーブ・ジャクソン投手の悲痛な
叫び声だったんです。
ちょうど、その時、小便をしようとト
イレに入った私に聞こえたおおきな叫
び声とトイレの扉前の様子を見た私は、
とっさに予備のロール紙を扉の下から
転がして洋式トイレの中に入れました。
私は少し笑ってしまいました。
必死に叫んでいるニュージーランドの
エースの子供のような可愛らしさに・・
(笑)。
そして、おおとりは西村信紀投手。
この人の身体能力は飛び抜けていました。
握力計、背筋力計ともに針を振り切り計
測不能だったように思います。
何年の日本リーグだったか忘れましたが、
杉本博司選手兼監督から言われたことを
覚えています。それは
「髙石は西村の完全試合の可能性が亡く
なった時に行くぞいつでも行けるよう
にしちょけよ!」
と・・・・。
私の返事は「はい。」しかありませんで
した。
大体の試合がそうでしたので、いまでは、
日本リーグのどのチームと試合をした時
かは覚えていません。
中京大学から戻ってきて、山崎浩誌選手
は公式戦では内野手をしていました。
清水投手にマウンドを譲っていたんです
ね。私はショックでした。
大学時代の追いつき追い越せと目標にし
てきた投手は山崎投手でしたので。
高知県人選手がマウンドに立っていて欲
しかったと思った覚えがあります。
この時点でマウンドに立っていたのは
清水投手(群馬県出身)、次がスティー
ブ・ジャクソン投手(ニュージーランド
出身)最後のトドメに西村投手(高知県
出身)・・・。
当時西村選手の球速は124キロ出てい
ました。
何を隠そう!スピードガンで測ったのは
私でしたので・・・ハイ(*゚▽゚*)
こういう風に私の選手としての立ち位置
は闘犬センターソフトボール部の中では、
控え投手(フリーバッティングの投手)
兼マネージャー兼スコアラーという位置
に置かれていく結果となった訳です。
「つぎこそは私がエースだ!」
と思い練習をしていた私でしたが、現実
はそう甘くありませんでした。残念でし
たが・・・・・。
このブログに「闘犬センターイズム」的
考察を加えてみましょう。
今日の写真の選手「清水源司」という男
は群馬県出身で、新島学園、日本体育大
学というエリートコースを「エース」と
して歩いていた人です。
大学卒業前に道を踏み外してしまって、
結局遠く離れた高知県でソフトボールを
することになってしまいました。
ただ彼の名前の中に「司」という文字が
入っているのは、このことを暗示してい
たのではないかと、昔から思っていまし
た。
というのは、闘犬センターの闘犬横綱の
名前は
「土佐司号」
と言います。
びっくりするでしょう。
このエリートのピッチャーは練習もして
いなかったですし、高知に来てからも本
気じゃなかったんですね。
練習はそれなりにやってはいましたが、
それなりでしたし、なめていたのかもし
れません。
それでもそこそこ抑えられていたんです。
しかし私が一応エースの座を手に入れる
きっかけになった試合がありました。
愛媛県で開催された国体四国予選のこと
でした。
第一代表決定戦に清水投手で臨んだもの
の、簡単に負けてしまいました。
その負け方に納得がいかない選手と監督
が話し合いを持ちました。
第二代表決定戦の相手は
「丸善石油松山」
でした。
市川さんと田村さんという元全日本の選
手(お二人とも高知県出身です。)がお
られましたし、日本一にもなったことが
あるチームでしたので、強敵でした。
佐竹選手と家竹選手が口火を切ります。
「どうせ負けるなら、ヒロシ君で負けよ
う。」
でした。
ちゃんと練習もしない源司で負けるより
あれだけ練習している私で負けた方が、
納得がいくということでした。
とても有難い、嬉しい言葉ではありまし
たが、「負ける」こと前提の話しはない
ろうというのが、それを横で聞いていた
私の心境でした(笑)
監督(田中規夫さん)の決断も同じでし
た。
「ヒロシで行く!」
負けること前提の登板でしたが、ここで
私の「負けず嫌い」の精神が発揮されま
す。
ピッチャーとしては相手を最少失点に抑
えて、自分で決勝打を打って勝ってやり
ました(笑)
これで私が「闘犬センターのエース」に
なりました。
この辺りから少しずつ本気ななった清水
投手も、元々持たれていたポテンシャル
を発揮し始めます。
日本リーグに初参戦するくらいからは、
「左右のエース」
として投げ合いますし、国体や日本選手
権の大切な試合は清水さんの登板が増え
きました。
それは大事な時に「三振」が取れる変化
球を持っているかどうかだったと思いま
す。
バットにボールが当たると何が起こるか
分かりません。
一番リスクが少ないアウトは「三振」で
す。
その「三振」を取れるボールを持ってい
たのは私ではなくて、清水さんでした。
闘犬センターの戦いの場所が「日本一」
を争う場所になればなるほど「エース」
の座は、私から離れていきました。
一つだけ負け惜しみを言わせてもらえる
なら、当時の闘犬センターには二塁手が
いませんでした。
消去法で仕方なく私が守っていただけで
した。
私が登板した試合では、私の代わりに入
った選手がエラーや送球ミスをして負け
るということが、何度もありました。
そうなると大事な試合は、たいして上手
でもないけれど、他の選手が守るよりま
しということで、私がセカンドに入ると
いうことになりました。
まあこのお陰で世界選手権にも出場する
ことが出来ましたので、良かったのか悪
かったのか複雑な心境ですね。
闘犬センターでは、チーム内で何か一番
であるということが必要でした。
私の場合は「練習量」でしたね。
他の選手が練習嫌いということも幸いし
ました。
何でもいいんです。
何か他の選手に出来ないこと、やらない
ことを持っていなと、このチームには居
場所がない、居ても居心地が悪いという
ことになってしまいます。
それは自分で言うだけでなく、チームメ
イトに認めさせないといけません。
たいして実力もないくせに生意気なやつ
が入部してきたときは悲惨でした。
何をやっても通用しない。
最初は怒られるくらいは当たり前なんで
すが、態度も実力も変わらないものなら
全く相手にされなくなり、居場所が本当
になくなってしまって、いつの間にか消
えてしまったという選手もいましたね。
チーム内の生き残り戦争みたいなものが
一番大変だったかもしれません。
仲良しが集まったクラブチームではなか
ったのです。
そういう意味では「プロ」だったですね。
ジャクソン投手については、彼は世界選
手権の優勝投手でしたし、短期間のスポ
ット参戦でしたので、闘犬センターの
「エース」ではありませんでした。
彼は「世界のエース」だったんです!
シーズンオフのスポット参戦でも、日本
人で彼のボールをまともに打てる選手は
いませんでしたので、彼がまともに参戦
していたら、高石君だけでなく日本中の
ピッチャーが全員控え投手だということ
になっていましたね。
これは高石君が「トイレ事件」を話した
いがための「ネタ」だと思います。
私もすっかり忘れていましたが、当時
高石君が嬉しそうに話していたことを
思い出しました。
「ジャクソンを助けた男」
って言いたかったんでしょうね(笑)
今日はここまでにします。