海外遠征(総括) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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闘犬センター単独及び闘犬センターを
中心とした海外遠征は、昨日ご紹介した
ニュージーランド遠征が最後だったと
記憶しています。

このような海外遠征が終了した原因は

1.日本ソフトボール協会がアジアの
 会長国になり、弘瀬会長がISFの副会
 長になったこと。


2.弘瀬 勝が日本ソフトボール協会
 の会長を辞任したこと。


この2つだったのではないかと思いま
す。

まず1ですが、日本ソフトボール協会の
会長となった弘瀬 勝氏がアジア戦略
と、世界戦略を考える中で、「闘犬セン
ター」と「日本選抜」
というチームを
使った結果、多くの海外遠征が行われた
ということでしょう。

目的を達成したので、必要がなくなっ
たというのが原因の1です。

チームでも日本ソフトボール協会でも
強烈なワンマン体制でしたので、やりた
いことは何でも出来るということです。

普通協会では理事会で決まったことを、
会長が承認するとういう形がスタンダー
ドなんだと思いますが、この当時の
日本ソフトボール協会は違っていて、
会長が決めた事を理事会が追認するとい
う感じだったんではないでしょうか。

行動力のある会長が、自分のやりたいよ
うに協会を動かすという、功罪両面を
持った時代です。

この弘瀬 勝という人物、人の心を見る
力はありました。

ISFという組織はいわゆる白人の強い組
織で、それを快く思っていないアジア、
中南米、アフリカなどの協会を丸め込ん
で、ISFでものし上がっていきました。

これも多分一番最初に行った世界選手権
の時に、首脳陣(白人)にまともに相手
されなかったことから始まった反骨心が
原点だと思います。

ここでもオーナーの得意技

「バカと利口が喧嘩したら、バカが勝つ」

の考え方が働いていますね。

2については、オーナーが日本ソフトボ
ール協会会長を辞任した途端、闘犬セン
ターは

「冬の時代」

を迎えることになります。

それまで常に表紙を飾っていた

「ソフトボールマガジン」

も、優勝しても白黒写真でしか紹介され
ないとか(笑)

それは極端なものでした。
ただ、それまでがあまりにも闘犬偏重で
あったので、丁度だったのかもしれませ
んね。

「闘犬マガジン」

と呼ばれていた時代がありましたものね。

相変わらず優勝はしていましたので、
世界選手権に選手は選抜されてはいまし
たが、弘瀬会長の後世界やアジアに目を
向けた活動をした会長はいなかったので
はないでしょうか。

当時の事を振り返って日本ソフトボール
協会の事務局にいた方にお話を聞いたこ
とがありますが、

「弘瀬会長の時は大変でしたけど、仕事
 は早かったので助かりました。辞めら
 れた後はなかなか決まらないので、
 それは違った意味で大変でした。」


理事会に議案をはかって協議しても、
それぞれの思惑や権力争いがあると、
物事って決まらないものですよね。

事務局は決まったことをするしかない
ので、これが一番困るようです。

上意下達方式の弘瀬体制では、下のもの
が異議を唱えることがありませんから、
決定は早い(笑)

「アセアン行くぞ!」

「サイパン行くぞ!」

「ニュージーランド行くぞ!」

「監督は杉本、選手はこれとこれと・・」

ん~、早いはずです(笑)

弘瀬体制の終了と同時に海外遠征の機会も
なくなりましたが、闘犬センターの時代は
続いていましたし、日本ソフトボール協会
の新しい役員の方々は、弘瀬会長にお世話
になった方々でしたので、もうしばらく
弘瀬 勝の影響力は残ったままでした。

今日はここまでにしますね。