
1985年に行われた日本協会選抜選手
団アセアン4ヵ国訪問の3番目の訪問国
シンガポールとの親善試合の時の写真で
す。
この時オーナーは日本ソフトボール協会
の副会長でしたが、その視線の先には
「会長」の座
がしっかり入っていたんだと思います。
日本ソフトボール協会の会長とともに、
アジアの会長国とISFの副会長の座を手に
入れるための、地ならし作業の一環が
このアセアン4ヵ国訪問だったのでは
ないでしょうか。
インドネシア、マレーシア、シンガポー
ル、フィリピンの4ヵ国を回りましたが
インドネシアの滞在が一番長く、行事も
たくさん準備されていました。
それも選手には全くと言っていいほど
スケジュールが知らされていないので、
インドネシアの厚生省の駐車場で延々
待たされたりとか、
突然動物園に連れて行かれて、

『尾長鶏』の贈呈式に出席というものも
ありました。
このプレゼントの相手は
「スハルト大統領夫人」
でした。
弘瀬 勝のアセアン行脚に随行するのは
オーナーが「右」といえば「右」を向く
「闘犬センター」が良かったのでしょう
が、それでは日本ソフトボール協会の
副会長の権威がすたります。
そのため、闘犬センターを中心にトヨタ
自動車の西川、山田、和田さん、旭化成
延岡の蕪さん、埼玉県庁の青木さん、
滋賀教員の西村さんを選抜しています。
これに来年から闘犬センターに入部する
ことになっている西村、森澤の高校生と
新島学園の塚越君、
大学生は日本体育大学の諸星君と同志社
大学の岡君(群馬の岡先生の息子さん)
で
「協会選抜選手団」
を構成していましたが、
「弘瀬選抜選手団」でした。
ソフトボールのレベルはフィリピン以外
は格下チームでしたので、親善試合と
技術指導がセットになっていました。

ジャカルタのホテルで開催された歓迎
レセプションの時の写真です。
バリ島から舞踊団を呼んだりと、インド
ネシア政府(厚生省)主催の規模の大き
なレセプションでした。
この遠征に行く前から
「生水には注意!」
と言われていて、それまで全く口にして
いなかったのですが、ジャカルタでも
二番目に大きなホテルというのと、政府
主催のレセプションということに安心し
て
「ウイスキーの水割り」
を飲んでしまいました。
翌日から「下痢」が始まりました。
マレーシア戦は「下痢」を我慢しながら
試合をしましたが、試合の合間に我慢
出来なくなって行った「トイレ」に閉じ
込められかかる恐怖も体験しました。
周りに誰もいない、呼んでも日本語は
通じない、そしてトイレも壊れていて
水が流れないというあの恐怖は、もう
二度と味わいたくないですね(笑)
翌日移動したシンガポールでは、
杉本監督から
「ホテル待機」
を命じられます。
この4ヵ国の中ではシンガポールが
実力的には下で、次の訪問国のフィリ
ピン戦が大切になるので、ホテルでゆっ
くりして体調を整えるようにと、私と
高石の二名がホテルで休息していて、
試合には参加していません。
ですから、シンガポールは空港とホテル
と、移動中のバスから見た景色しか知り
ません(涙)
最後の訪問国になったフィリピンは親善
試合というよりは、真剣モードの試合に
なりました。
雨上がりの赤土のグランドはコンディシ
ョンは良くありませんでしたが、闘犬
センター勢の活躍もあって、4-2で
勝利を収めます。
オーナーからはこの試合前に、
「この試合は勝て。」
との指示がありました。
寄せ集めの急造チームで「勝つことを
求められる」杉本監督はたまったもの
ではなかったと思います。
そこには闘犬センターと杉本監督の
元所属していたトヨタ自動車の和田さ
ん、山田選手、西川選手(すべて高知
県人であり、和田さんは同い年、山田
西川両選手は高知商業の後輩)が、
配置されていました。
これはオーナーの優しさだったのでし
ょうかね(笑)
日本ソフトボール協会副会長のお供の
アセアン4ヵ国訪問も無事終って、
帰国したかと思ったら、空港の検疫で
同志社大学の岡君が「下痢」にチェッ
クをしたため、しばらく入国出来ず
全員足止めになるというアクシデント
が、この遠征のピリオドを告げる出来
事になりました。
彼は今どいうしているのでしょうか?
岡先生に会ったら聞いてみたいと思い
ます(笑)
今日はここまでにしますね。