なりました。
今回の世界選手権も終わり、全日本の
選手も無事帰国して国内の戦いに向けて
気持と体の切り替えをしているところ
だと思います。
全くの偶然ですが、メールマガジンも
31年前の同じ状況のことをご紹介して
います。
それではご覧ください。
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第27号のメニューはこちらです。
■昭和59年(その7)
■編集後記
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■昭和59年(その7)
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今回は世界選手権から帰った後の昭和59
年のシーズンのお話しです。
帰国後ゆっくりする間もなく、残りの
戦いが始まりました。
7月30日鳥取県の大山で行われた(と思
っていましたが、記録を見ると淀江町に
なっています。)第5回全日本クラブ男
子ソフトボール大会の準決勝で、鳴門
渦潮クラブに延長8回1-0でサヨナラ負け
をしています。
チャンスが有りながら1点も取れずに、
最後エラーで負けてしまいましたので、
とても悔しい敗戦になりました。
この日の朝のことです。
興奮して眠れないオーナーが、朝早く
から活動していたら、早々に会場に向か
う鳴門渦潮クラブの姿を見てしまいまし
た。
まだ寝ていた私たちの部屋に飛び込んで
くるやいなや、
「お前らぁ、どうしよらあや!」
「関原はもう会場にいったぞ!」
「早く準備して、行かんか!」
けっこうな勢いでした。
私は起きてはいましたが、今日の試合の
ために自分なりのペースで準備をするつ
もりでしたので、それを乱されて頭に来
ていたこともあって、寝たふりをして
無視していました。
それが気に入らないので、オーナーは
頭の上でさらにギンギン怒鳴っていまし
たね(笑)
仕方なく起床して朝食を済ませて会場入
りするわけですが、朝からオーナーに
気合を入れられているものですから、
その日の試合前の練習の気合の入ってい
ることといったら、普段の闘犬センター
の練習の雰囲気とは全く違ったものに
なっていました。
練習が終わってもいつもより早く会場入
りしている関係で、試合開始まで時間が
余ってしまって、一旦気が抜けたみたい
な感じになってしまいました。
それで試合に入ったのも、この試合が
なかなか点の取れない展開になった一因
だと思っています。
だから試合に負けた後も気分が良くなく、
「お前が朝からギャーギャー騒ぐき、
こんなことになったわ!」
とオーナーにその怒りをぶつけていまし
た。
9月になり、今度は熊本県で開催された
一般男子ソフトボール大会に出場して、
決勝戦で滋賀教員ビッグレイクスに2-1で
勝って、初優勝を飾ります。
この大会前には、監督・コーチから
「この間のクラブみたいなことになると、
負ける可能性が高くなるので、この大会
は選手のペースでやらしてください。」
とオーナーに申し入れてからの熊本入りで
したので、比較的オーナーの大人しい大会
でした(笑)
いつもこうだったらいいんですけどね。
この大会を振り返って杉本監督は、
「いずれも厳しい相手だったが、清水、
山崎両投手が踏ん張り、打線も全試合を
通じてよく打ってくれた。各選手がそれ
ぞれに働いたチームワークの優勝と思
う。」
「日本リーグ、日本選手権でも勝てるよ
う、さらに頑張りたい。」
とコメントされています。
そして9月になり、埼玉県浦和市で開催
された日本リーグ第二節を全勝で切り抜
け、最終成績8勝2分けという成績で、
初参加、初優勝を飾ります。
この時の杉本監督のコメントもご紹介して
おきますね。
「初参加を優勝で飾ることが出来てうれし
い。」
「型通りの作戦を取っていたのでは先輩実
業団 チームにはかなわないと考え、
エンドランなど 思い切った攻めをした
の がうまくいった。」
「苦しかったゲームでも、ここというとこ
ろで 選手たちがよく頑張ってくれた。」
「チームに精神的な強さが加わってきたよ
うに 思え、それが嬉しく頼もしい。」
杉本さんの描いたプラン通りの、日本リー
グの対実業団との戦い方が出来たというこ
とだったと思います。
クラブチームが実業団の出来ないソフト
ボールをやって、実業団に勝つという
やり方を見せつけた最初の1年目でした。
一般男子、日本リーグと続けて制覇して、
この年最後の大会は二連覇のかかった
日本選手権になりました。
初戦はインカレ優勝の国士舘大学との
対戦になりました。
大学生だからとなめていたわけではあり
ませんが、なんとかなるだろうが、なん
とかならず、2回に杉本さんが打った
レフトへのホームランによる1点を、
清水さんが守って勝ったという試合でし
た。
続く準決勝は雪辱と実業団のプライドを
かけてきたトヨタ自動車でした。
3回に深見選手と家竹選手の連打で1点
を先取しますが、4回に二死後の4連打
で2失点。
試合はこのまま1-2で終わり、連覇の夢は
断たれました。
もっと努力して強くなりなさい!とソフ
トボールの神様が言ってくれたんでしょ
うね。
まだまだ全タイトル制覇の道は先のこと
になります。
この年の暮、12月になって嬉しいニュ
ースが飛び込んできました。
世界選手権の活躍が評価されて、1月に
ニュージーランドで行われる
「ソフトボール世界男子オールスター戦」
に、闘犬センターから「家竹選手」
トヨタ自動車から「田中誠一選手」が選出
されました。
こんな嬉しいニュースで幕を閉じた
昭和59年でした。
今日はここまでにしたいと思います。
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クラブチームが初めて日本リーグに挑戦
して、実業団相手に対等に戦うなんてこ
とに挑戦した頃の戦い方のお話しです。
今の日本リーグなんかを見ていると、
どのチームも同じ戦い方をしているよう
に見えます。
実業団であれ、クラブであれ同じ土俵で
戦える時代になったんだなと思う反面、
「良いピッチャーがいて、打てる打線を
持っているチームが勝つ。」
まあ、これはいつの時代も当たり前なの
ですが、違ったやり方でチャレンジして
いるなあと思わせてくれるチームもなく
なったなあという印象ですね。
ボールが飛びますから、どこで一発逆転
が起こるかも分からなかったり、一方的
な大差の試合になったりと、昔とは違う
難しさはありますが、練習量や選手層の
薄さなどのハンディキャップを持った
チームが、工夫して環境に恵まれたチー
ムに戦いを挑んでいく姿も見てみたいと
思うのは私だけでしょうか。
こんなことを言っていると、西村全日本
監督からいつものように、
「古い!」
と一喝されてしまいそうですね(笑)
今日はここまでにしたいと思います。
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実際のメールマガジンの発行は毎週日曜
日にさせてもらっていまして、今日発行
した分で第40号になりました。
平成3年のシーズンを振り返っています
ので、この先を早く知りたい方は
「まぐまぐ」
「ソフトボール日本一への道」
で検索してみて下さい。
よろしくお願いします。
