
1984年熊本市で行われた
第30回全日本一般男子ソフトボール
大会で優勝した時の写真です。
後列右端に練習用のユニフォームで
写っているのが、まだ高知商業の3年生
の時の「西村選手」です。
入部が内定していましたので、この大会
に連れて来ていたんですね。
これが出会った直後の「西村選手」とい
うことになります。
この大会の戦いぶりを見て、高校生だっ
た彼が、私たちの戦いぶりをどう見てい
たかは分かりません。
「さすが一般は違う。」
だったのか
「これなら、自分でもやれる。」
だったのか。
西村選手はアマチュアのソフトボール、
球児君は日本の野球の最高峰のプロ野球
ですから、そのスタートはかなり違った
ものになっても仕方がありませんよね。
西村選手は入部当初からピッチャーとし
て試合に登板しましたが、球児君は当初
は先発として一軍と二軍を行ったり来た
りしながらっでしたが、その頭角を現し
たのは7年後になりました。
どちらも18歳のころは、持って生まれ
たセンスと運動能力でやっていたという
感じでしょうか。
努力に努力を重ねて今の状態を手に入れ
というわけではなくて、普通にやってい
たらこうなっていた。
西村選手は人並み外れた「筋力」
球児君は「野球センス」
荒削りではありましたが、ソフトボール
という世界では西村選手のボールのスピ
ードは、そう誰もが投げられるものでは
ありませんでした。
前年まで左のエースとして活躍していた
清水投手は東京に帰って、ほぼ引退状態
で、勝負する相手は私くらいでしたので、
西村投手がエースの座を手にいれるのは
簡単なものだったでしょう。
ニュージーランド研修で大きく成長して
日本のエースになるわけですが、ニュー
ジーランドに行けば誰でも、あのような
ピッチャーになれるわけではありません。
確かに素晴らしい技術なんですが、その
基本となる体幹の強さ、大きさ、それに
伴う筋力がないと、同じように投げても
同じようには変化しません。
ここで西村選手の日本人離れした「筋力」
が、ニュージーランドの技術を日本人が
再現してみせることになりました。
ここが西村選手のすごいところです。
でもこのころでも、そんなに努力してい
た訳ではありません。
彼はこれが普通に出来たんです。
彼がみんなの見ていないところで走った
り、体のケアをし始めるのはもっと後、
「西村で行け!」
の指示のもとで、連戦連投を続け、勤続
疲労の蓄積や、強い背筋の力に耐えられ
なくなった大胸筋が悲鳴を上げ始めた
ころからでしょうか。
一方球児君は度重なる故障もあって、
一時はそのセンスを生かして「野手」
転向の話しも出たりしながら、ピッチャ
ーを続けていました。
「1年目は陸上部やった。」
と言っていましたので、結構走らせれた
みたいですが、それもやらせれた練習で
す。
普通にやっていたらプロ野球選手、特に
二軍選手の中では目だつ存在だったみた
いです。
一番最初に沖縄の自主トレに呼ばれて行
った時に、遠投をやっていた福原選手が
「こんな遠投するやつは、プロでもそん
なにいませんよ。」
と言ったのを鮮明に覚えています。
プロ野球ではほとんど実績を残していな
い時でも、やはりなにか光るものを持っ
ていたみたいです。
でもこの時はセットアッパーとして注目
され始めた時期でしたが、まあ走りませ
んでした。
福原選手と私が陸上競技場を10周して
いル時に、球児君は1周すればいいくら
い。
「もうちょっと走ったら?」
と言うと
「僕は1イニング、10球ばあしか投げ
んがで。」
「要らんろう。」
ごもっともな言い分でした(笑)
こちらもセットアッパーからストッパー、
バットがボールの下を通る三振の山を築
き、手が付けられない時期から、だんだ
んバットにとらえられることが多くなっ
てきた頃から、人が変わったように真剣
にトレーニングに取り組むようになりま
した。
今日はそれぞれのスタートの頃のお話を
してみました。