言うたやないかいって、突っ込みが聞こ
えてきそうですね(笑)
昨日のブログの後、このブログを読んで
いるOBたちから、大事な人が抜かって
いますよって言ってくるのを待っていた
んですが、誰も何も言ってこないので、
自分で言うことにしました。
「山崎浩誌選手」
が紹介されていません(笑)
本当は誰か紹介してくれないかなって
感じなんですけど。
これだけみんなを褒めて紹介してきまし
たので、さぞかし素晴らしい人間性を
持った選手として紹介してもらえるんだ
ろうと思います。
まあ、下手なことを書くと何を言われる
か分からないという怖さがあるので、
なかなか難しいと思います(笑)
ですから、自分で正直に書きたいと思い
ます。
それでは、
私山崎浩誌、最近は事情があってこの
「誌」を使っていますが、本名は「志」
です。
ある人に「山崎浩志」はお金が貯まらな
い名前だと言われたので、画数を調べて
「山崎浩誌」を使っています。
お金は相変わらず、貯まりません(笑)
高知県幡多郡大正町で昭和34年に生ま
ました。
小学校はソフトボール、中学校は野球を
やってました。
進学した地元の大正高校に野球部がなく
て、もう何もしない帰宅部でと考えてい
ましたが、3年生に中学校の野球部の
先輩がいて、
「やらんか。」
と誘われて、何となく断れなくなって
ソフトボールを始めました。
この断れない性格が闘犬センター入りに
も繋がります。
まさか15歳で始めたソフトボールを、
55歳になってもやっているとは、思い
もよらないことでした。
もう40年もやっているんですね(笑)
入学したころの大正高校は弱いチームで
したので、入部当初の練習試合で佐竹選
手のいた北ノ川中学(西日本大会で優勝
するような強豪でした。)に負けるよう
なレベルでした。
県体に行っても1回戦で負けて帰るチー
ムでしたので、そのとき3年生でインタ
ーハイと国体で優勝した杉本さんのいた
高知商業なんかは、アップしているとこ
ろしか見たことがありませんでした。
その弱小チームが1年の秋季大会で3位
になります。
このとき2年生の先輩がエースだったん
ですが、怪我をされてしまって大会の
2週間前から私が急遽ピッチャーの練習
を始めていました。
生まれて初めてのウィンドミルでした。
先輩と日本体育大学出身のハンドボール
の先生が師匠でした。
このハンドボールの先生が、私の人生の
方向を決めるキーパーソンになることは、
この時はわかりませんでした。
その後中村市で行われた一条大会で初優
勝しました。
この頃には私がエースになっていました。
ピッチャーなんかやるつもりはなかった
ですけどね。
2年になって春季大会も優勝、突然の
レベルアップでした。
ただ、県大会ではこれに勝てばインター
ハイに行けるという試合で、山沖選手に
ホームランを打たれて負け。
国体予選も負けてしまいます。
この全国大会に繋がる2大会を優勝した
のが、田中雄二選手と山沖選手のいた
「中村高校」でした。
私たちの大正高校は、秋季大会にも優勝
しましたので、前年末の一条大会を含め
ると中村高校に対して3勝2敗なんです
が、全国大会には行っていません。
この1年間県内の大きな大会を「中村高
校」と「大正高校」が優勝を独占してい
るんですね。
高知商業、高知工業という強豪が1回も
勝っていなくて、幡多郡のチームが勝っ
た珍しい年でもありました。
ただ、国体には補強として参加させてい
ただきました。
この時の出会いが、後に田中雄二選手と
山沖選手が闘犬センターでソフトボール
をすることに繋がります。
3年生の時はなかなか勝てませんでした。
県体は2年連続でこの試合に勝ったら
インターハイという試合で、7回2アウ
トまでノーヒット・ノーランをやってい
ましたが、サヨナラホームランを打たれ
負けてしまいました。
全く打たれそうな感じなしなかったので、
「あーあ、延長か。」
って、何も考えずにど真ん中に投げた球
でした。
2年続けて、左中間を抜けて行くボール
を見ることになるなんて・・・
国体予選は大会前の練習で、後輩と激突
して膝を負傷して絶不調になり、負けて
しまってその負け方があまりにもふがい
なかったためか、補強にも呼ばれません
でした。
これで高校のソフトボールは終了でした。
そのあとはサッカー部の試合に出てみた
りしながら、フラフラしていました。
私の進路の希望は「公務員」でしたので
それ以外のことは考えてもいませんでし
た。
一応この年のピッチャーの中では目立つ
存在だったみたいで、日本電装からも
お誘いいただいていたみたいですが、
私自身はきちんとお話を聞いた記憶が
ありません。
後に日本リーグで当時の山口監督に
「お前、電装に来るはずやったに。」
と言われるまで、意識したことがありま
せんでした。
まあ、予定通り「公務員」試験に合格し
ましたので、その他の選択肢はなかった
ということで、記憶から消去してしまっ
たんだと思います。
もし、電装に行っていたならどんなソフ
ボール人生になっていたかを考えると、
ちょっとわくわくしますね。
そして、突然「闘犬センター」という
聞いたこともないところから誘われるこ
とになりました。
この闘犬センターという会社、聞けば
聞くほど評判が悪い(笑)
お兄さんが警察官の先生も、
「あそこはやめちょけ!」
とお兄さんに聞いて、アドバイスしてく
れていましたので、全く行くつもりもな
く、自動車学校にかよっていました。

授業はなかったので、学校にいくことも
なかったのですが、たまたま自動車学校
が休みで、学校でサッカーをしていて、
そろそろ帰ろうかとした時のことです。
後ろから「金色のリンカーン」が入って
きました。
田舎では見たこともない車でした。
「やばい、ヤ●ザが来た。」
と思ったので、さっさと帰ろう
としたら、
「山崎君じゃないですか?」
「闘犬の弘瀬です。」
背筋が凍りました(笑)
本当にやばい人やん!
写真はその時の私と、リンカーンを運転
してきた「ゆったん」という人です。
よくこんな写真を持っていたものです。
何をしゃべったかも記憶にありません。
友達は逃げて行ってしまっていましたし、
心細かったことだけを覚えています。
「是非1回来て下さい。」
と言われたような気がします。
どうやって断ろうって考えたのが、全て
の間違いでした。
これまで数々闘犬センターの罠にはまっ
た被害者をご紹介してきましたが、最初
の被害者は間違いなく私です(笑)
この後1回は「足をけがした。」と言っ
て、行くのを断っています。
けれど田舎者の高校生が言い負かせる相
手ではありませんので、
「次はいつ来れる?」
「いつけがは治る?」
の攻勢に負けて、結局行くことになって
しまいます。
試合があるので、それに合わせて来いと
いうことでした。
とても一人で行く勇気はなかったので、
上に書いたハンドボールの先生が高知の
実家に帰るという車に便乗して一緒に
行ってもらうことにしました。
この後は闘犬センターの社長の書いた
シナリオ通りに進んでいくことになる訳
ですが、お山の学校の高校生くらい丸め
込むことなんか朝飯前だったっでしょう
ね。
悪い男です!
長くなりましたので、今日はここまでに
しますね。