がやってきました。
それではやっとたどり着いた日本一への
道はどんな道だったのか、ご覧下さい。
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第19号のメニューはこちらです。
■昭和58年(その3)
■編集後記
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■昭和58年(その3)
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前号、前々号に引き続いて、昭和58年
のシーズンを振り返ります。
念願だった国体初出場を3位で終えた後
は、私たちが総合選手権と呼んでいた
第12回全日本ソフトボール選手権に
出場しました。
昭和53年に創部してから5年、ついに
「日本一」
へ上り詰める時がやってきました。
1回戦の相手は中京大学でした。
ピッチャーは浪人生時代に闘犬センター
に所属していたこともあり、卒業後闘犬
センターに戻ってくることになっていた、
高石投手でした。
「高石くらいいつでも打てる。」
ちょっと舐めていましたね。
高石投手も闘犬センターのメンバーを
熟知していますので、これがなかなかの
激戦となりました。
先取点は中京大学、追いつくものの追加
点は取れずに1-1のまま延長戦に入ります。
そして延長8回、普段DH守備ばかりで
打席にはいることのない北川選手のタイ
ムリーでサヨナラ勝ち!
高石投手も知っているだけに、北川選手
ということで、少し甘くなってしまった
ということでしょう。
準決勝は宿敵トヨタ自動車です。
これまで何度も煮え湯を飲まされてきた
相手でしたが、この日は違いました。
先発清水投手が絶好調、被安打3、無四
球、二塁も踏ませないという投球で、
付け入る隙を与えません。
打線も5回に3点を取って結局3-0の完勝。
決勝戦に進出を決めます。
試合後のミーティングでトヨタ自動車の
井川監督が選手に、
「たかがクラブチームに負けるなんて、
情けない!」
と叱責したという話が後から伝わってき
ましたが、この試合はトヨタ自動車が
闘犬センターに完敗した最初の試合に
なりました。
このあたりから、闘犬センター(クラブ
チーム)と実業団との差がなくなり、
逆転していくことになったでしょうか。
さて、決勝の相手は国体開催県でもあっ
た群馬教員でした。
国体開催に合わせて強化もされていまし
たし、三宅さんという日本のエースもい
らっしゃいましたので、優勝候補の筆頭
であり、順調に決勝戦に駒を進めてきま
した。
初めての総合の決勝戦、しかも相手は
群馬教員です。
緊張もありました。
2回にエラーが重なって2点を献上して
しまいます。
試合は群馬ペースで進んでいって、7回
もツーアウト、ランナーなし、敗色濃厚
のこの場面から、奇跡のような攻撃が始
まります。
まず佐竹選手が三遊間を破るヒットで
出塁、
続く田中雄二選手がセンター前と続き
ます。
まだ、誰も諦めていなかったんです!
次のバッターは私でした。
この時私は
「この状況でヒットを打てる佐竹選手と
田中さんはすごなー!」
と静かに思っていたのをはっきり覚えてい
ます。
「よーし、俺も続くぞ!」
みたいにいきり立ってはいませんでした。
これがよかったのか悪かったのか、私の当
たりはちょっと詰まったレフトフライ
(と私は思いました。)かと思いました
が、なんとレフトを守っていた山田さん
が、私の豪快なスイングに惑わされて
(笑)、一旦バックをしてしまって、
レフト前の2点タイムリーヒットにして
しまいました。
(先日浦野さんとお会いした時に、この時
のことを聞いてみましたが、浦野さんも
「レフトフライ」で試合終了と思ったそう
です。)
これで同点になりました。
そして延長戦に入りました。
ここまで来るともう闘犬センターペースで
す。
延長8回もワンアウト1、3塁と追い詰め
ますがさすが群馬も、簡単には点を与えく
れません。
そして迎えた9回表、先頭の田中雄二さん
が再びセンター前のヒットで出塁します。
次はさっき同点タイムリーの私の打席で
す。
ノーアウトですからバントで送るのが
定石、そこへ田中規夫さんが近づいて
きました。
「お前で勝負するき、まかしたぞ!」
思いもよらない言葉でした。
そして出たサインが
「ヒットエンドラン」でした。
浦野投手の高めのボールになるライズボ
ールでした。
その球を上からたたいた打球は、内野の
頭を超えレフト線ギリギリに飛んでいく
ライナーとなって、三塁打になりました。
1点勝ち越し、落胆した浦野投手から
平松選手がセンター前にヒットを打って
1点追加してとどめを差します。
その裏の群馬教員の攻撃を3人に仕留め、
ゲームセット。
ついに「実力日本一」の称号を手に入れ
ます。
第1回クラブ大会に優勝するも、総合選
手権への出場権なしという状況から3年
で、クラブチームが、全国の頂点に上り
つめた瞬間でした。
日本協会しかり、全国のソフトボール関
係者が誰も想像していなかった優勝だと
思います。
優勝した田中規夫監督のコメントが高知
新聞に載っていますので、ご紹介します
ね。
「日本を代表する強豪に勝っての優勝だ
けに、 本当にうれしい。」
「劣勢の時もひるまずに闘志を見せて、
選手たちは本当によくやってくれた。」
「チームは上り調子だったが、好機に
集中打が出てくれたのが勝因だ。」
「全日本クラブ大会に続く二冠の喜びを
今かみしめている。」
本当に嬉しい優勝でした。
この頃は優勝して嬉しいと思えた、
良き時代でした。
これがこの後、優勝しても喜べないよう
になるとは、誰も想像していませんでし
たけどね(笑)
今日はここまでにしますね。
次号はこの嬉しい優勝の後、シーズンオ
フに起こった事件についてご紹介したい
と思います。
次から次へと何か起こるのが闘犬センタ
ーです(笑)
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やっとというか、なんとかたどり着いた
「日本一」
でした。
昭和53年に始めた時には想像もしてい
なかったことでしたが、いつの間のにか
「日本一になる。」
が目標になっていました。
夢のような、けれど夢じゃない現実が
そこにあって、それはとても嬉しい優勝
になりました。
写真は本文中にある延長9回に決勝タイ
ムリーを打った時のものです。
積極性に欠ける私の性格を、良く理解し
た田中規夫監督だから出せた「ヒットエ
ンドラン」のサインだったと思います。
そうでもなければ、こんな高いボール球
には手は出ませんものね。
規夫さんはさすがです!
今日はここまでにしますね。
