メールマガジン(13) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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ソフトボールがもっと上手になりたい、勝ちたい、テクニックが知りたい方に、カリスマたちの貴重な情報をお届けします。

今日も引き続き昭和54年のシーズンを
振り返っています。

それではどうぞ。

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第10号のメニューはこちらです。

■昭和5年度(その2)
■編集後記

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■昭和54年度(その2)
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前号の続きです。

初めての全国大会は旭化成延岡の蕪投手
の前にこてこてにやられて0-4で完敗し
ます。

何をやっても通用せず、子供扱いされた
という印象でした。

元気の良さが売りの闘犬センターの野次
も通用せず、25年間で負けた試合は
たくさんありましたが、口でも負けた
試合は後にも先にもこの試合だけでした。

実はこのことはとてもくやしかった出来
事で、このくやしさを知っている連中は、
いかに試合が劣勢になっても口だけは
負けないように、

格好いい言い方をすると、負けそうな
試合でも最後まであきらめずに、闘争心
を持って試合を続けるようになりました。

悪い言い方だと

「口だけは絶対どこにも負けるな!」

ですけどね(笑)

このことで、この後23年ほどの間、
闘犬センターの口にやられるチームが
たくさん出てくることになります。

今振り返ってみると、本当に申し訳ない、
恥ずかしいような言葉と態度をたくさん
してしいました。

申し訳ありません。

「元気だけは絶対どこにも負けるな!」

だったら良かったんですよね。

力のない田舎のチームが、全国と張り合
う時には最初は必要だった虚勢だったん
です。

途中からは勘違い(強いから何を言って
もいいんだみたいな。)もありました。

反省しております。

本当に力のあった西村投手なんかは、
口で勝負する必要がなかったので、
野次なんかを飛ばしているところなんか
を見ることはなったはずです。

試合には負けてしまいましたが、この
大会はその後の闘犬センターにとって
大きな影響を及ぼす、出会いと再会の
あった大会になります。

一つはこの大会の宿舎に当時トヨタ自工
(現トヨタ自動車)に所属していた
杉本博司さん(後に主将、監督になりま
す。)と田中誠一さんが訪ねてきます。

この二人は高知商業時代に田中規夫監督
などに、指導してもらったことがあって
挨拶に来たのですが、それを聞いたオー
ナーが二人に、

「帰ってこい。」

の勧誘を始めます。

それも驚くような勢いで(笑)

たぶん二人には全くそんな気もなく、
ただ挨拶に来ただけだったのに、この
変なおんちゃんは誰?
だったんだろうと思いますが、この後
長くて猛烈な勧誘の嵐に襲われること
になります。

けれど分からないものです、この後
田中誠一さんは結局帰って来ません
でしたが、杉本さんが高知に帰って
来てチームに加入、すぐにキャプテン
就任となりました。

その後二代目監督となり、実業団には
出来ないソフトボールを実践し、
日本一のタイトルを最も多く手にする
監督になります。

そして、勝てば二試合目に対戦するはず
だった中京大学には、私が高校時代に
一緒に国体に行った、田中雄二さん
山沖浩三さんがいました。

この二人は高知に帰って教員を目指すこ
とになっていましたので、私から

「帰ってたら闘犬で、一緒にソフトボール
 をしましょう!」


とお誘いしました。

その際にオーナーにも紹介しましたので、
この後二人もオーナーからすごい勧誘を
されることになります。

この年二人は、国体予選に補強として
参加し、その後卒業とともに高知に帰り、
闘犬センターでソフトボールをすること
になります。

山沖さんの所属期間は短かったですが、
田中雄二さんはチームの主力選手として
長くチームの勝利に貢献しました。

田中雄二さんは闘犬センターで十分活躍
されて、最後は教員にお返しをしたいと
いうことで、円満にチームを離れ高知教員
でその後選手や監督を続けられます。

長く活躍された選手で円満にチームを離れ
られたて、その後別のチームで選手を続け
られたのは、田中雄二さんだけじゃないか
なと思います(笑)

オーナーが他のチームに行って、自分の
チームの敵になるのをすごく嫌いました
ので、本人たちは闘犬センターを辞める
ということは、もうこの先ソフトボール
はしない(もしどこかに所属したら、
その所属したチームに迷惑がかかるとい
うことが分かっていたので)と思ってい
ても、なかなか辞めさせてはもらえませ
んでした。

オーナーは勘の鋭い人でしたので、辞め
るとかいう話で桂浜の闘犬センターに行
ったときは、居留守を使ったり用事が
あると言ったり、体調が悪いと言ったり
して、会ってくれませんでした。

ですから辞めるときはオーナーともめた
という形で、喧嘩別れみたいなことに
なるのが普通でした。

私が一時チームを離れた時も、そうでし
た!

私は会ってくれないので、ユニフォーム
と手紙をダンボールに入れて、一方的に
送りつけてやりましたので(笑)

ただこの方法は、後で相当悪く言われま
したけどね。

余計な話が長くなりましたが、このよう
に重要な出会いの場となった初の全国大
会は、帰りも飛行機を使って高知に帰っ
てくるというリッチな帰路で幕を閉じま
す。

小さな挫折と大きな出会いをご紹介して、
今回はここまでにしますね。

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■編集後記
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最後までお読みいただいてありがとうご
ざいます。

アメブロ

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ブログ」

では、現在闘犬センターの帽子の秘密の
ご紹介が終わって、歴代のユニフォーム
のご紹介をしています。

写真があったり、メルマガとは違ったもの
になっていますので、そちらも覗いてみて
くださいね。

よろしくお願いします。

            (山崎 浩誌)

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杉本博司さん、田中誠一さん、田中雄二さん

山沖浩三さん

闘犬センターの歴史を語る上では欠かせない
人ばかりです。

この方たちと再会したこの大会への出場は、
とても意味のあるものになりました。


歴代ユニフォームの中の1枚です。

背番号16なので、高石投手のユニフォーム
だと思いますが、彼は今体重が100kgを超える
巨漢になっていますので、このユニフォーム
を着ることは出来ません(笑)