監督(その19) | ソフトボールを愛する人にお届けするブログ

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今日はめずらしくランナーコーチを
している写真にしてみました。

何か腕組んで立っているだけみたい
に見えますよね(笑)

さて、闘犬センターの監督の難しさ
を、改めて事例でご紹介したいと、
思います。

昭和60年将来の大エースとなる
西村投手と、高校時代日本一の投手
であった有吉投手が闘犬センターに
入ってきます。

このシーズン開始前に左のエースで
あった清水投手が、高知を離れ東京
に帰り、登録はしてあるので試合に
は参加するものの、練習はほとんど
出来ていない状態。

さらに私が突然の肩痛のために投球
出来ない状態でした。

日本リーグの開幕をこのような状態
で迎えましたので、オーナーからは
杉本監督に、

「先発は有吉で行け!」

「次は西村で行け!」

と、指示が出ます。

杉本さんは仕方ないので、高校を出た
ばかりの若者を先発させたのですが、
いくら球が速いとか高校日本一と言っ
たところで、所詮18歳の子どもです
から、そんなに簡単に勝たせてくれる
ほど、大人の世界は甘くありませんで
した。

なんと、開幕2連敗でシーズンを
スタートする最悪の事態になってしま
いました。

当時の主力、佐竹選手と家竹選手が
私のところにやってきて、

「ヒロシ君、肩壊れてもええき、
 投げや!」


とっても嬉しい言葉でしたし、私も
投げたいと思っていたところだったの
ですが、言葉はおかしいですよね?

「ヒロシ君じゃなかったらダメやき、
 投げや!」


ですよね?

「肩壊れてもええき・・・」

は、おかしいと二人には抗議しました。

それを杉本さんに伝え、試しに投げて
みると、肩の痛みもなく、普通に投げ
られました。

あとは球数を投げていないので、どこまで
もつかだけでした。

チームの意見としてオーナーに伝え、
第3戦日本電装(当時はこれがチーム名
でした。)の先発は私ということになり
ます。

試合は何と延長8回1-0でサヨナラ勝ちで
今シーズン初勝利となりました。

試合が終わって何かほっとして、涙が出た
のを覚えています。

さあ、次もいくぞと思って

「お杉ちゃん、次もいくで!」

って言うと、返ってきた言葉が

「次は源司(清水さん)でいく。」

でした。

たぶんオーナーからの、指示だったんだと
思いますが、またチームの勢いを止めるよう
な感じになって、豊田自動織機と2-2で引き
分け、日本リーグ前節を2勝2敗1分けと
いう成績で、6チーム中4位という成績で
折り返すことになりました。

この苦汁をなめた二人の若者は、いろいろな
大会を経験しながら、大人のソフトボールに
も慣れてきて、この後はほぼこの二人が投げ
ることが多くなりました。

当然それを決めるのは、監督ではなくて
オーナーでした。

オーナーにはオーナーの思惑があるんです。

この時にはジュニアの世界選手権の選手選考
というものがありましたので、そのジュニア
の全日本のエースに西村をするために、その
実績が必要と考えたんだろうと思います。

高校時代の実績であれば、有吉がエースに
なってしまいます。

この時のジュニアの全日本は西村と有吉が
日本柱でしたけど、西村がエースじゃないと
ダメだったんですね、オーナーとしては。

その思惑をチームに持ち込むので、監督は
たまったものではありません。

相手がどこであろうが、西村の調子がどうで
あろうが、出てくる指示は

「西村で行け!」

なわけですから。

この傾向は、後になればなるほど強くなって
いったような印象があります。

「ワシはソフトボール知らんき。」

と言っていたのが、まあ20年以上
ソフトボール見ていると、それなりに
ソフトボールが分かってきたんでしょうね。

けど、これが面倒臭いんです!
頭にくるんです!
腹が立つんです!(同じかな?)

ですから闘犬センターの監督は、すごく
ストレスが溜まります。

で、我慢できなくなって居なくなります。

明日はそのあたりの事をご紹介しようかな
と思っています。

今日はここまでにしますね。