
平成2年福岡国体の開会式の
写真になります。
珍しく監督も入場行進して
いますね(笑)
昭和60年のシーズンは、クラブ
日本リーグ、一般男子、
日本選手権の四大タイトル独占
という、日本ソフトボール界初
の快挙を達成した年で、この年
の高新スポーツ賞もいただいて
います。
翌昭和61年月25日の朝刊に掲載
された「高新スポーツ賞の顔」
という記事に次のようなことが
載っていますので、ご紹介した
いと思います。
周知の通りのクラブチーム。
職場、職域はバラバラ。
週2回の夜間練習にも全員が揃う
ことはまずない。
「視察に来た県外の実業団チーム
が驚き、あきれ、参考にならぬ
と帰ってしまう。」(杉本監督)
ほどのハンディキャップだらけの
練習環境だ。
そんな
「草ソフトのチーム」(杉本監督)
が、日本男子ソフトボール史上未到
の快挙をやってのける。
「うちは遠征に行ってもミーティング
なしの門限なし。調整はすべて本人
任せで、オーダーも申告制。」
と笑う杉本監督。連日3~4時間、綿密
な計画練習でチームを作り、万全の
状態で大会に臨んでくる実業団、大学
チームの『管理ソフト』とはまったく
逆を行く。
「管理された練習で一人ひとりの選手
にヤル気が生まれるかどうか。練習
時間は長いけれど、試合で一番大切
集中力が出てこないように思うのだ
けど。」
と、自身実業団で長くやってきた杉本
監督。
「ウチはみんなが一国一城の主なんで
す。個性のキツイ選手が多い。こっ
ちは何も言わないけど、成果を上げ
ないと恰好の悪いのは自分自身だか
ら、それぞれ必死ですよ。」
試合終了後は自由、しかし夕食には
帰って来い。なぜなら、明日の予定を
この時に確認するので。夕食後も自由
行動でした(笑)
打順の申告制は最初は遊びみたいな
物だったように思います。
それぞれ自分の特徴と、チーム内での
立ち位置みたいなものは分かっていた
ので、
「1番打ち立ちたい人?」
って聞かれても普通は、家竹選手が
「はーい!」
って手を挙げて、順番に決まっていく
ものでした。
このシステムが最も機能したのが、
昭和61年4月27日、日本リーグでの
対トヨタ自動車戦でした。
いつものように、1番打ちたい人?から
始まりましたが、この日は少し違った
展開が待っていました。
「4番打ちたい人?」
そこで「はい」と手を挙げたのは、その
年トヨタ自動車を退社して闘犬センター
に入ったばかりの西川という内野手でし
た。
彼は俊足のスイッチヒッターでしたが、
4番を打つような選手ではありませんし、
まして闘犬センターで4番を打つなんて
ことは、ふつう天地がひっくり返っても
有り得ないことでした。
けれど前年までトヨタ自動車に所属して
いた西川選手には、確信があったんです
ね。宮川投手なら誰より打つ自信がある
って!
スイッチヒッターと言っても、足を活か
すために左で打つことが多かった西川選手
でしたが、左ピッチャーの宮川投手に対し
、右打席に入ります。
この日西川選手は三塁打2本をかっとばし
て、その自信が間違いなかったことを証明
してみせます。
試合は7-1の完勝。宮川投手の落胆ぶりを
覚えています。
普段良くて2番、下手すると7番、8番を打
っている選手が、4番打ちたいですと手を
あげること、それをやってみたらってやら
せる監督とチームっどうなんでしょうね(笑)
こんなことをやりながら、闘犬センターは
数々のタイトルを獲得していきました。
一言付け加えると、この後西川選手が4番を
打つことは、二度と再びありませんでした。
世の中そんないにうまくいくことばかりで
ないことは、チームも西川選手も理解して
いました。
次4番に手を挙げようものなら、
「調子に乗るな!」
と怒られていたと思います(笑)
今日はここまでにしますね。
明日も引き続き杉本監督のエピソードです。