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今日は、北条氏が滅亡するまでの出来事です
それではお楽しみ下さい(^o^)/
【北条氏の衰退】
12月4日、家康は、本城を浜松城から駿河国(するがのくに)の駿府城へ移した。
出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えた。
天正15年(1587年)12月3日、豊臣政権より家康に関東・陸奥国(むつのくに)・出羽国の監視が託された。
天正15年(1587年)12月28日、秀吉の推挙により朝廷から左近衛大将に任ぜられる。これにより、家康は駿府左大将と呼ばれた。
この後、数度に渡って秀吉は和戦両様の構えで、北条氏に対して「上洛・出仕」を求めた。氏政は使者を送るなど表面上は秀吉に従いながら、裏では「奥羽の覇者」となった伊達政宗(だてまさむね)との同盟を進めていた。
天正16年(1588年)5月21日、家康は、北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての起請文で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。
①家康が北条親子のことを讒言(ざんげん)せず、北条氏の分国を一切望まない
②今月中に兄弟衆を京都に派遣する
③豊臣家への出仕を拒否する場合、氏直に嫁いだ督姫(とくひめ)を離別させる
家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規(ほうじょう うじのり)を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。
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天正18年(1590年)1月、家康は北条氏と事実上断交し、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。その軍勢は20万。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供した。
北条氏は「小田原評定」と呼ばれる結論の出ない会議を繰り返した。大事な時点で、優柔不断でリーダーシップのなさも表面化した。
天正18年(1590年)7月5日、北条氏降伏後、家康は、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国(こうずけのくに)・上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)・下野国(しもつけのくに)の一部・常陸国(ひたちのくに)の一部の関八州に移封された。家康は、本城を武蔵国の江戸城にし、移り住んだ。
天正18年(1590年)8月1日、江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安をはじめとする有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。
本日はここまでです
家康は、生まれ育ち慣れ親しんだ国々を離れ、関東八州に移封されました
しかし領地は250万石とも300万石とも言われ、大大名になったのです
次回の徳川家康の歩みをお楽しみに