戦国武将 徳川家康の歩み(27) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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今日は、小牧・長久手の戦いのあと、豊臣秀吉政権が樹立するまでの出来事ですカブト

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/



天正12年(1584年)6月28日羽柴秀吉は大坂城に戻り、これを受けて家康も清州城に移り、小牧・長久手の戦いは終息していった。しかし、その後も小競り合いは続いていく。大阪の和泉で起きた「岸和田城の合戦」、北関東に於ける「沼尻の合戦」、四国では「十河城(そごうじょう)の戦い」、伊勢では「蟹江城(かにえじょう)の合戦」が起き、羽柴軍織田信雄徳川家康連合軍との間で合戦が行われた。

天正12年(1584年)8月16日羽柴秀吉は楽田城(がくでんじょう)に入り、8月28日には家康も岩倉城に入り、双方、楽田と岩倉において対陣するも小競り合いに終わった。その後も、木曽谷の「妻籠城(つまごじょう)の戦い」、能登の「末森城の戦い」、三重の「戸木城(へきじょう)の戦い」をおこなっていく。

天正12年(1584年)11月12日羽柴秀吉は伊賀と伊勢半国の割譲を条件に織田信雄に講和を申し入れた。織田信雄はこれを受諾し、伊賀と伊勢半国は羽柴秀吉の臣下の大名たちに分け与えられた。

天正12年(1584年)11月17日家康は、織田信雄が和睦してしまったため、戦争の大義名分を失ってしまい、三河国に帰国した。その後、羽柴秀吉は使者を浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)羽柴秀吉の養子にするために大坂に送った。こうして、小牧の役は完全に終わった。これによって、天下の趨勢(すうせい)は秀吉政権確立へと進んでいくこととなった。

天正13年(1585年)7月羽柴秀吉は、近衛前久(このえ さきひさ)の猶子(ゆうし、実親子ではないが親子関係を結んだ子のこと)となって公家出身という地位を得た後、関白宣下(かんぱくにせんげす)を受け、正式に関白となり、豊臣政権が樹立した。秀吉が「征夷大将軍」を選ばずに公家の最高位である「関白」になったのは、秀吉が百姓出身で源氏の血筋が証明できないためだった。

天正13年(1585年)11月13日)徳川家の実質ナンバー2だった石川数正が出奔(しゅっぽん、逃げ出して行方をくらますこと)して豊臣秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、家康は軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革した。

天正13年(1585年)11月29日、日本列島中央部をマグニチュード8クラス、最大震度6の「天正大地震」が襲った。越中国(えっちゅうのくに)の木舟城は陥没し、城主・前田利家の弟である秀継が死亡し、飛騨国(ひだのくに)の帰雲城(かえりくもじょう)も城下もろとも埋没するなど、被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んでいた。一方の家康は、この地震により岡崎城が被災したが、領国内は震度4以下だったため被害は大きくなかった。しかし以前からに大雨や戦いへの動員で徳川の領国は荒廃しており、家康は戦どころではなかった。

天正14年(1586年)10月27日家康は、1年近くにわたる交渉を秀吉と行ない、秀吉の妹である朝日姫との婚姻(朝日姫は夫と無理やり離縁させられた)を決め、さらに秀吉の母である大政所を人質に取ることを条件に、上洛して大坂城において秀吉に謁見し諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。家康は45歳の年に、豊臣政権のナンバー2の座に落ち着いた。


本日はここまでです鉛筆

 

家康は秀吉と臣従の関係になりましたびっくりマーク

これでしばらく平和が続きますねクローバー

 

次回の徳川家康の歩みをお楽しみにウインク

 

 

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