戦国武将 徳川家康の歩み(24) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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みなさん、こんにちは。

ソフトブレインのシニアAです。

 

 

今日は織田家の覇権争いで、秀吉と柴田勝家の戦いです。

 

それではお楽しみ下さい(^o^)/


【賤ケ岳(しずがたけ)の戦い】
天正10年(1582年)6月27日織田信長6月1日に殺されて約1ヶ月が過ぎたころ、織田家の後継者を決定する会議が清洲城で開かれた。信長の三男である織田信孝を推す柴田勝家と、嫡男の織田信忠の子である三法師を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じたが、丹羽長秀(にわ ながひで)・池田恒興(いけだ つねおき)らが三法師(さんぽうし)擁立に賛成したため、柴田勝家も譲らざるを得ず、後継者は三法師となった。

天正11年(1583年)正月、伊勢国(いせのくに)の滝川一益が、柴田勝家への加勢を明確にして挙兵し、丹波国(たんばのくに)の亀山城(かめやまじょう)、峯城、関城、伊勢国の国府城(こうじょう)を占領し、滝川一益自身は伊勢国(いせのくに)の長島城で秀吉を迎え撃った。秀吉は、2月には大軍を率いこれらへの攻撃を開始し、国府城を2月20日に落としたが、亀山城は3月3日、峯城は4月12日まで持ち堪え、城兵は長島城に合流して、滝川勢の抵抗は頑強であった。

天正11年(1583年)3月12日、それまで雪で進軍できなかった柴田勝家は、春になるのを待ちきれずに兵を動かした。佐久間盛政前田利家らと共におよそ30,000兵の軍勢を率いて近江国(おうみのくに)の柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。滝川一益が篭(こも)る長島城を包囲していた秀吉は10,000兵の軍勢を残し、50,000兵の軍勢を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築したため、戦線は膠着した。

天正11年(1583年)4月16日、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が、伊勢国の滝川一益と結び、再び挙兵し、岐阜へ進出した。近江国、伊勢国、美濃国の対応をするべき秀吉は、翌日美濃に進軍し、大垣城に入った。

天正11年(1583年)4月19日柴田勝家は、秀吉の軍勢が近江から離れた好機に佐久間盛政に大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていた中川清秀は陥落し討死。続いて黒田孝高は奮戦し守り抜いたが、岩崎山の高山右近はやはり支えきれず退却し羽柴秀長の陣所に逃れた。この後柴田勝家佐久間盛政に撤退命令を下したが、佐久間盛政は従がわず、前線に着陣し続けた。

天正11年(1583年)4月20日、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。この時、船で琵琶湖を渡っていた丹羽長秀2,000兵が海津へ上陸を敢行し、桑山重晴の軍勢と合流し、賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。

天正11年(1583年)4月20日、同日、秀吉は、大岩山砦の落城を知り、直ちに軍を返した。大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した(美濃大返し)。 佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。両軍は激戦となった。

激戦の最中、柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ、柴田軍全体の士気が一気に下がった。さらに柴田軍の一部が退却したため、秀吉軍柴田軍の本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず柴田軍は崩れ、ついに越前・北ノ庄城に向けて退却した。

天正11年(1583年)4月23日柴田勝家は、居城の北の庄城を秀吉の軍勢に囲われ、夫人のお市の方(信長の妹)らとともに自害した。また、柴田勝家の後ろ盾を失った織田信孝は、岐阜城を包囲されて降伏、4月29日切腹を命じられて自害した。

天正11年(1583年)5月、残る伊勢方面の滝川一益は、1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家した。


本日はここまでです鉛筆

 

秀吉と柴田勝家は馬が合わなかったみたいですねびっくりマーク

 

次回の徳川家康の歩みをお楽しみにウインク

 

 

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