みなさん、こんにちは
ソフトブレインのシニアAです
今日は、天正7年から天正10年にかけての武田家滅亡までの出来事です
それではお楽しみ下さい(^o^)/
天正7年(1579年)、家康が38歳になったころ、正室の築山殿(つきやまどの)と嫡男の信康(のぶやす)の2人が、武田氏へ密かに通ずる疑い(いまでいうスパイ容疑)を信長から掛けられた。
信長の娘の徳姫(とくひめ)が、築山殿との折り合いが悪く、夫の信康とも不和になり、父、信長に対して12箇条の手紙を書き、徳川家の重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)に託したからである。
手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通したこと、と記されていた。
信長は使者の忠次に糺した(ただした、問いただすこと)が、忠次は信康を全く庇(かば)わず、すべてを事実と認めてしまった。
この結果、信長は家康に対して、信康の自決を要求した。
家康は悩んだ末、信長との関係を維持することを選択したのである。
天正7年9月15日(1579年)、家康は、二俣城に幽閉していた信康に対し、自決を命じた。
天正9年1月3日(1581年)、家康が40歳になったころ、信長と共に遠江国(とおとうみのくに)にある武田方の高天神城(たかてんじんじょう)を取り囲んで、兵糧攻め(城を包囲し水・食料が尽きるのを待つ戦法)をおこなった。
このとき信長から降伏を許さないことが伝えられていた。
天正9年3月25日(1581年)、武田軍の援軍も来ず、水・食料も底をつき、城兵は死と直面していた。亥の刻(いのこく、午後10時ごろ)、生き残っていた城兵700名余りは、ささやかな酒を交わしたあと、城から討って出た。
月あかりの少ない真っ暗な闇の中で、勇猛果敢に突撃したが、最後には落城した。
高天神城の落城、しかも援軍を一兵たりとも送らなかったことは、勝頼の威信を致命的に失墜させた。甲斐国(かいのくに)の国衆(くにしゅう)は大きく動揺した。
天正10年2月(1582年)、家康が41歳になったころ、信長と共同で武田勝頼の領土へ本格的侵攻を開始した。信長は信濃方面から侵攻し、家康は駿河方面から侵攻した。
甲斐南部の河内領・駿河国の江尻城(えじりじょう)城主の穴山梅雪を調略し、あっという間に駿河国を制圧した。
3月になると、本国の甲斐国の領土が危うくなった武田勝頼は、諏訪上原城から新府城(別名韮崎城、にらさきじょう)に撤退したが、兵の逃亡が相次いで、それまで10000人いた勝頼本隊の兵がわずか1000人まで激減していった。
勝頼は居城の岩殿城(いわどのじょう)に退こうとしたが、部下の裏切りで岩殿城に入ることが出来ず、険しい山道を天目山に向かったが、織田の軍勢に攻められ、この地で甲斐武田氏は滅亡した。
この後まもなく甲斐国に入った信長は、武田方をかくまった恵林寺を攻め、寺に火を放ったが、住職の快川紹喜(かいせんじょうき)和尚は火中で泰然として「心頭滅却すれば火もまた涼し」と唱えたと伝えられている。
本日はここまでです
家康にとって、長男を自決させたのはかなり辛いことですね。
それを実行し、さらに信長と関係を持ち続けるのは、どんなに心の大きな人だったのでしょうか。
次回をお楽しみに
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