戦国武将 徳川家康の歩み(13) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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今日は、武田信玄との前哨戦ですカブト

それではどうぞ(^o^)/



【三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(1)】
元亀(げんき)元年(1570年)、29歳になった徳川家康は、岡崎から遠江国(とおとうみのくに)の曳馬(ひくま)に移ると、ここを浜松と改名し、曳馬城を浜松城と改名し、本拠地とした。

元亀2年(1571年)10月、30歳になった家康は、相模国(さがみのくに)の北条氏政(ほうじょううじまさ)と協調して、甲斐国(かいのくに)の武田信玄への攻撃を続けた。北条氏政の父、北条氏康(ほうじょううじやす)が亡くなると、北条氏政武田信玄との間で甲相同盟(こうそうどうめい)を結んだため、家康北条氏政の協調はなくなり、武田信玄が駿河国(するがのくに)の今川領を占領した。

元亀3年(1572年)10月、31歳になった家康の領地である遠江国・三河国に、武田信玄足利義昭第15代将軍の依頼に応えるための西上作戦(せいじょうさくせん)により、攻め入ってきた。織田家武田家は、武田勝頼信長の娘(養女)との婚姻、織田信忠信玄の娘との婚姻で2重に結ばれていたが、この侵攻で手切れとなった。

武田信玄は軍を3つに分け、山県隊3,000兵を三河国へ、秋山隊3,000兵を美濃国の岩村城へと先行させ、自ら率いる本隊2万2,000兵で遠江国へと侵入した。さらに信玄は本隊を2隊に分け、馬場隊5,000兵を只深城(ただらいじょう)を攻略させて二俣城に進撃させ、残る本隊1万7,000兵で、天方城(あまがたじょう)・一宮城(いちのみやじょう)・飯田城(いいだじょう)・挌和城(かくわじょう)・向笠城(むかさじょう)など北遠江の徳川諸城を全て落とした。

家康信長に援軍を要請するが、信長もまわりに敵を抱え対応に苦慮しており、また武田軍秋山隊が美濃国の岩村城を攻撃したことから十分な援軍は送れず、徳川軍は単独で武田軍と戦うことになった。

徳川軍武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(みつけ)にまで進出した。浜松城の北側を固める要衝(ようしょう)である二俣城(ふたまたじょう)を守る徳川軍8,000の兵が、武田軍の動向を探るために偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂(ひとことざか)の不利な陣形で撤退を余儀なくされた(一言坂の戦い)。

家康は、遠江方面の武田軍本隊に対する防備と、山県隊が侵攻する三河に対する防備を、充分に固められず、徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月二俣城は落城した(二俣城の戦い)。これにより、遠江国の大半が武田領となり、また遠江国の国人・地侍の多くも武田軍の味方となっていった。


【感想】
武田信玄は治水などが有名ですよね。「信玄堤(しんげんづつみ)」はいまでもたくさん残っている様です。


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