戦国武将 徳川家康の歩み(2) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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こんにちはビックリマークソフトブレインのシニアAですクローバー
今回は竹千代の転機に絡む織田信長に先に焦点を当ててみたいと思います鉛筆


 

天文3年(1534年5月12日)、竹千代が生まれる8年前、織田信長は尾張国(愛知県西部)で生まれ、吉法師(きっぽうし)と命名された。

 

両親は尾張国の戦国大名の織田信秀と、尾張国土田(つちだ)の豪族である土田政久の娘の土田御前である。

 

信長は幼いころに那古野城(現在の名古屋城二の丸)を譲られ城主となっていたが、しきたりに反する行動が多く「大うつけ」と呼ばれていたようだ。

 

そのため母の土田御前は弟の信勝に愛情を注いでいた。



天文15年(1546年)信長が13歳になったころ、古渡城(ふるわたりじょう)にて元服し、「織田三郎信長」と称した。


天文16年(1547年)信長が14歳になったころ、6歳の竹千代と尾張国の菩提寺である万松寺で出会った。

 

信長は、竹千代のことを骨のある奴だと認め、関係を続けた。


天文18年(1549年)信長が16歳になったころ、織田氏と敵対していた美濃国(岐阜県の南部)の戦国大名の斎藤道三との和睦が成立した。

 

美濃の蝮(マムシ)と呼ばれた道三の娘である15歳の濃姫(のうひめ)を迎え、信長は結婚した。

 

濃姫とは「美濃の姫」の意味なので、別名帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)と呼ばれた。

 

濃姫道三から短刀を渡され、「信長が噂通りの大うつけならこの短刀で刺し殺せ」と言われると、「この短刀で父上を刺すことになるやもしれません」と答え、気丈な一面を見せたという逸話がある。


天文21年(1552年3月)信長が19歳になったころ、父の信秀が亡くなり、信長は家督を継いだ。

 

これを機に「織田上総介(かずさのすけ)信長」と称した。

 

鳴海城を守っていた山口教継がうつけの信長では織田氏は持たないと、今川氏に寝返ったこと、山口教継が調略(ちょうりゃく)を用いて大高城と沓掛城(くつかけじょう)を奪取したこと、笠寺城に今川方の武将を引き入れたことなどにより、鳴海城・笠寺城・大高城・沓掛城の4城が今川氏の手に落ち、尾張・三河国境における織田氏の勢力は弱まった。

 

信長はこの脅威に対して、大高城の周囲に丸根砦、鷲津砦を築き対応した。


今回はここまでクローバー

次回も信長の続きです鉛筆 お楽しみに(^-^)//