戦国武将 徳川家康の歩み(1) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

    ✤ We Love Softbrain ✤ 

        日々の仕事や、プライベートな趣味まで掲載しています。

こんにちはビックリマークソフトブレインのシニアAですクローバー

若いころ徳川家康の小説を制覇したので歴史と地理を交えながら自分で書いてみようと思います鉛筆


家康は天文11年(1542年12月26日)、三河国(愛知県東部)で生まれ、竹千代と命名された。

 

両親は三河国の豪族で岡崎城主である松平広忠と、三河国西部の豪族で刈谷城主水野忠政の娘の於大(おだい)である。

 

三河国は、東の今川義元の駿河国(静岡県中部)・遠江国(静岡県西部)、西の織田信秀(信長の父)の尾張国(愛知県西部)に挟まれていた。


竹千代が3歳になったころ、水野信元(於大の兄)が今川の敵である織田氏に属することになると、今川の援助を受けている広忠の立場は苦しくなり、広忠はやむなく於大と離別することになり、竹千代は寂しい思いをする。


竹千代が6歳になったころ、尾張国の織田信秀(信長の父)が大軍で三河国に攻め入り、広忠今川義元に援軍を求めた。

 

援軍を出す代わりに今川義元は人質を要求し、結果として竹千代今川義元のもとに送られることになった。


しかし、運ばれる途中で竹千代今川義元ではなく織田信秀(信長の父)の手中に落ちてしまう。

 

これに今川義元が激怒し三河国から織田信秀の軍勢を追い払い、三河国の一部まで領土を広げることになった。

 

 

竹千代はそのまま尾張国の菩提寺である万松寺に2年間預けられることになる。

 

織田家の人質となっている間に、竹千代織田信長と知り合い、家康は東側を、信長は西側を征服しようと誓い合った。


2年後、竹千代の父である松平広忠が死んだ。

 

それから8ヶ月後に今川義元が戦で織田信広(信長の腹違いの兄)を捉え、竹千代と人質交換をすることになった。

 

 

竹千代は岡崎城主のまま人質という待遇で駿府に送られ、岡崎城には今川義元の家臣が城代として入場し、三河国は今川義元の属国となっていった。

三河武士は頑固者が多く、戦上手の者共が沢山いた。

彼らは竹千代を殿と呼び慕い、いつか岡崎城に戻る日を夢見て、今川義元軍の先鋒として一生懸命に働いた。

 

 

人質になって11年後、竹千代転機が訪れる。


今回はここまでビックリマーク

竹千代に訪れる転機とは・・・。 次回をお楽しみにウインク