昭和の魅力とは何か?
令和の昨今、昭和は〈エモい〉とか言われて、昭和を知らない世代の若者たちにもてはやされています。
昭和と言っても、その期間は非常に長いわけですが、例えば昭和30年代(1955〜1964)から昭和40年代(1965〜74)にかけての活気に満ちた高度経済成長期などは、昭和を生きた我々から見れば、エネルギッシュで希望に満ちている明るいポジティブなイメージがあります。が、やはり、その当時の風俗や文化は、現代の若者たちから見れば、古すぎるというか、ついていけないというか、ある種の文化的な断絶(距離)があるようです。
それよりも、その後の昭和50年代(1975〜1984)から昭和60年代(1985〜1989)にかけて、経済大国となった日本の工業力が世界を制していた繁栄の頂点とも言える昭和末期の時代の風俗・文化が、現代の若者にとっては〈昭和レトロ〉として非常に新鮮に魅力的に映っているようです。
つまり、現代の若者たちにとって魅力的な昭和というのは、せいぜい昭和50・60年代(1975〜1989)の昭和の最後の時期であって、音楽・芸能で言うなら、山下達郎・大瀧詠一・稲垣潤一・南佳孝・寺尾聰・オフコース・来生たかお・伊勢正三・五十嵐浩晃・杉山清貴・山本龍彦・ブレッド&バター・佐野元春・大沢誉志幸・鈴木雅之・林哲司、八神純子・竹内まりや・松原みき・杏里・泰葉・ユーミン・大貫妙子・吉田美奈子・尾崎亜美・大橋純子・庄野真代・EPO・中原めいこ・矢野顕子・菊池桃子・丸山圭子など、いわゆるシティポップ・アーティストの活躍の黄金時代であり、同時に、松田聖子・中森明菜・小泉今日子・中山美穂・斉藤由貴・薬師丸ひろ子・岡田有希子・本田美奈子、田原俊彦・近藤真彦・チェッカーズ・イモ欽トリオ・吉川晃司・シブがき隊・少年隊・光GENJIなど80年代アイドルの全盛期なのではないかと思うのです。
そこから遡ったとしても、彼らZ世代が心惹かれるのは、せいぜい70年代後半のアイドルである山口百恵・岩崎宏美・太田裕美・キャンディーズ・ピンクレディー・桜田淳子、西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎・沢田研二・太川陽介・清水健太郎らの時代までというか、ミュージシャン(アーティスト)で言うならば、70年代後半から末にかけてブレイクしたゴダイゴ・クリスタルキング・YMO・サザンオールスターズ・矢沢永吉・松山千春・長渕剛・さだまさし・アリス・甲斐バンド・チューリップ・世良まさのり・因幡晃・柳ジョージ、久保田早紀・渡辺真知子・下成佐登子・高橋真梨子・中島みゆき・イルカ・沢田聖子・谷山浩子・五輪真弓・サーカス・ハイファイセット・山崎ハコ・大友裕子・森田童子あたりまでという感じです。
それ以前の時代の音楽、石原裕次郎・小林旭・舟木一夫・西郷輝彦・橋幸夫・森進一・北島三郎・千昌夫・五木ひろし・三波春夫・村田英雄・春日八郎・三橋美智也・フランク永井・菅原洋一・藤島桓夫・田端義夫・鶴田浩二・神戸一郎・アイ・ジョージ・坂本九・前川清、美空ひばり・島倉千代子・江利チエミ・八代亜紀・都はるみ・青江三奈・ちあきなおみ・いしだあゆみ・奥村チヨ・五月みどり・畠山みどり・コロンビアローズ・大津美子・宮城まり子・二葉百合子・加藤登紀子・西田佐知子・倍賞千恵子・ザ・ピーナッツ・こまどり姉妹・藤圭子・由紀さおりといった、昭和30・40年代(1955〜1974)の演歌・ムード歌謡・懐メロの時代の音楽は、平成・令和育ちの現代の若者にとっては、かなり心理的距離があり、さほど心惹かれる魅力的なものではないようです。
しかし、この記事では、平成生まれ、令和育ちのZ世代の若者にとっての昭和の魅力ではなく、なるべく客観的に(戦後の)昭和と平成以降の社会・生活・文化を対比して、世情や価値観の違いを明らかにし、昭和に育った人と平成以降に育った人の相違点を論じ、その上で、昭和の光と影を浮き彫りにしてゆき、平成以降と比べて昭和の何がよかったのかを考察してみたいと思います。
昭和(〜1989)と平成(〜2019)の際立った違いの一つは、民間テクノロジーの激変・発達です。
昭和には、パソコンもインターネットも庶民のものではなかったし、移動電話もビジネス用にトランシーバー並みにゴツくて巨大なものしかなく、仕事用として自動車で持ち運ぶぐらいがせいぜいで、とても私用で気軽に携帯できるものではありませんでした。
そもそも一般の素人がパソコンでネットを自由に観られるようになったのは、マイクロソフト社のWindows’95ソフト(1995)が発売されて以降のことです。しかも、昭和の時代のテレビやパソコンなんて、ブラウン管でしたからね。とってもゴツくて重くてかさばりました。液晶テレビなど薄型ディスプレイのテレビが普及するのは2000年代の後半からです。
携帯についても、今のガラケーに近いものが発売されたのが1999年、スマホが発売されたのが2008年です。
すべて平成になってから生まれたものであって、昭和の時代にはポケベルすらなかったのです。
とは言え、昭和でも、1979年を境に技術革命が起きました。それがウォークマンの発売です。これ以降、散歩をし、電車に乗り、街を歩きながら、個人的に好きな音楽を聴くことができるようになりました。
この時代、ラジカセでFMラジオをエアチェックして、好きな曲を集めたオリジナルのカセットテープをつくる人が多かったし、針によるレコードの劣化を防ぐために、購入したレコードは、すぐカセットテープに録音して聴きました。レコードは傷みやすいナマモノでしたから。
一方、CDがLPを国内生産枚数で逆転したのは1986年のことです。そして、この年、山下達郎は初のデジタルレコーディング・アルバム『POCKET MUSIC』をリリースしました。昭和末期は、アナログからデジタルへの過渡期だったと言えるでしょう。
この昭和末期(80年代)、同時期のシティポップとは一線を画する時代の代弁者や糾弾者や警告者として、あるいは炭鉱トンネルのカナリアのように人々に警鐘を鳴らすカリスマ的なミュージシャンとして、浜田省吾、尾崎豊、THE BLUE HEARTSなどが活躍していました。
浜田省吾のエポック・メイキング・アルバム『PROMISED LAND(1982)』、尾崎豊のデビュー・アルバム『十七歳の地図(1983)』、ブルーハーツのデビュー・アルバム『THE BLUE HEARTS(1987)』などの強烈なメッセージ性、そして、人の魂を揺さぶる共感力は、今聴いてもまったく色褪せないものです。
彼らの挑戦は、昭和末期の時代の多くの若者たちの挑戦でもあったのだと思います。その挑戦の中身は「(お金を儲けることよりも)より人間らしく生きる中で幸福を追求することはできるか」ということでした。しかし、その挑戦は、平成に入って行き詰まり、挫折へと追い込まれていきます。
尾崎豊の死(1992/26歳)は、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995)、X JAPANのhideの死(1998)などとともに、冷戦終結及びバブル崩壊後の平成の挫折を象徴する事件でした。
尾崎豊が亡くなったのは26歳の時ですが、海外ではロックのスーパースターが27歳で亡くなることが多くて、27クラブという有名な言葉があります。
ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ドアーズのボーカルだったジム・モリソン、ニルヴァーナのフロントマンだったカート・コバーン、エイミー・ワインハウス、皆、27歳で死んでいきました。
死因は、ほとんどが薬物の過剰摂取などによる事故死、あるいは自殺でした。
人が大人になろうとする時、最後の壁が現れるのが25歳ごろなのではないかと私は思っています。
その壁の内容は「私は、この世界で、どうやって生きていけばいいのか?」という命題です。その命題に向き合い、自分なりの答を掴み、壁を乗り越えることができなければ、人はその先を生きていくことができないのではないでしょうか。そして、この答を見つけようとする葛藤は、25歳より以前から数年に及ぶこともあるでしょう。
いずれにしても、答を見出せないまま、25歳を過ぎてしまうと、「もう自分は一歩も前へ踏み出すことができない」という苦しい状況に追い込まれていきます。
これには人間の生命力の成長のピークが25歳であることと深い関係があるのではないかと考えています。
「25歳で超えられない壁は、それ以降も決して超えられない」と人は自然と感じるのかもしれません。
豊かな鋭い感性を持つアーティストの中には、時代精神との無謀とも言える孤独な格闘の中で、自分なりに生きていく術を遂ついに見出すことなく命を散らせた若者たちがいるのだろうと思うのです。
その代表が、27クラブであり、尾崎豊だったのではないでしょうか。
70年代の閉塞感が27クラブという犠牲を生んだように、平成の閉塞感が尾崎豊を殺したのかもしれません。
1980年代の挑戦と挫折をよく現していると私が感じる3つのアルバムがあります。
それは1980年リリースの河島英五の『文明Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』と、1990年リリースの中島みゆきの『夜を往け』と、同じく1990年リリースの浜田省吾の『誰がために鐘は鳴る』です。
『文明Ⅱ』のラストの「エンジンを止めてくれ」を聴き、『夜を往け』のスタートの「夜を往け」とラストの「with」を聴き、『誰がために鐘は鳴る』のラストの「夏の終り」を聴くと、1980年代とはなんだったのか、一つのイメージがつかめるのではないかと思います。
話変わって、高度経済成長期(1955〜1973)についても、1964年の東京オリンピックをクライマックスとする昭和30年代と翌1965年の40年不況から始まる昭和40年代には、ある種の変化・断絶があるように思います。
例えば、テレビ・アニメを考えてみても、
◯昭和30年代後半⇨鉄腕アトム(昭和38年)・鉄人28号(昭和38年)・エイトマン(昭和38年)、狼少年ケン(昭和38年)などの作品に見られる明るいポジティブな躍動感とは対照的に、
◯昭和40年代前半⇨巨人の星(昭和43年)・妖怪人間ベム(昭和43年)・忍風カムイ外伝(昭和44年)・タイガーマスク(昭和44年)・あしたのジョー(昭和45年)・みなしごハッチ(昭和45年)などの作品では、非常にネガティヴな陰鬱さが表現されています。
「鉄腕アトム」は、事故で息子を失った科学者が息子の生まれ変わりとして作り上げたロボットですが、この生みの親はアトム本人のアイデンティティは認めず、自分の願ったような息子にならなかったとアトムを捨てます。アトムを引き受けて大切に育てるのは縁もゆかりもないお茶の水博士です。アトムに人間を恨むようになってほしくないというのが博士の願いでした。
鉄人28号は、もともと旧日本軍が殺人機械として開発していたロボット兵でした。
アトムも鉄人も、「科学技術(兵器や原子力)は、それを利用する人間次第であり、私たちはその責任を負っているのだ」という力強い思想が感じられる作品です。
昭和30年代のアニメ作品には、「たとえ厳しい現実の中で葛藤があったとしても、最終的には、〈科学〉や〈人間性〉を人は信頼することができるのだ」という肯定的で希望に満ちたメッセージが感じられます。
一方で、昭和40年代前半のアニメ作品には、「人間の〈悲しみ〉や〈狂気〉や〈運命〉は、人間の努力ではどうにもできないこともある(悪意が善意を蹂躙することもある)」という懐疑的で暗いメッセージが強く感じられる作品が多くあり、しかも、そうした重すぎる内容の作品が、当時、幼稚園児にも観られていたというのは驚くべきことです。
例えば、星飛雄馬の父親の教育は、今の基準で考えれば、確実に児童虐待ですし、ハッチはもちろんですが、伊達直人も矢吹ジョーも、生まれた時から親のいないみなしごです。ジョーなど少年院にまで入ります。
カムイもまた、忍者の里を裏切って抜け忍となり、追っ手に追われながら、たった1人で逃れ続ける逃亡者です。その状況は、虎の穴を裏切って、処刑人の魔の手から逃れ続ける伊達直人にも似ています。
ベムたちの場合は、人間ですらなく、いつか本当の人間になりたいと渇望しながら、闇に隠れて生きる人造人間の怪物なのです。しかも、この世に生まれ出たのは、偶然、打ち捨てられた研究設備で生じてしまった異物のような扱いです。彼らは、人間を助けるために邪悪なるものと戦うのですが、その一方で、助けた人間によって追い詰められ、抹殺されてしまうのです。
「巨人の星」を除く、上述の5作品では、誰に望まれて生まれたわけでもなく、理不尽で冷酷な世間の嫌われ者として、邪魔者として、あるいは抹殺の対象とされながら、それでも生きていく主人公たち(伊達直人・矢吹ジョー・カムイ・ハッチ・ベム、ベラ、ベロ)の悲哀と苦悩と苦闘が描かれています。
物語のトーンとしては、どれも、かなり、絶望的です。
ただ、両者の共通点は、昭和30年代アニメも、昭和40年代アニメも、人間性や社会の本質に深く迫るような筆力を持って、とても真面目に作られていたことです。
今、それらのアニメ作品を再び観てみると、当時の大人たちは、何らかの意味あることを、未来を託す子どもたちに伝えようとして、とても一生懸命だったのだろうと感じます。
そのような強い使命感は、現在のモノづくりの現場では、あまり見られないかもしれません。
また1970年代アニメ(昭和45〜54)には、現在まで人気が続く有名アニメ・シリーズも、数多く始まっています。例えば『天才バカボン(1971)』『ゲゲゲの鬼太郎 第二シリーズ(1971)』『ルパン三世(1971)』『海のトリトン(1972)』『マジンガーZ(1972)』『バビル2世(1973)』『ドラえもん(1973)』『エースをねらえ!(1973)』『キューティーハニー(1973)』『アルプスの少女ハイジ(1974)』『宇宙戦艦ヤマト(1974)』『フランダースの犬(1975)』『ガンバの冒険(1975)』『まんが日本昔ばなし(1975)』『あらいぐまラスカル(1977)』『ヤッターマン(1977)』『未来少年コナン(1978)』『機動戦士ガンダム(1979)』『ベルサイユのバラ(1979)』などです。
劇場用映画では、海外でも評価された『銀河鉄道999(1979)』や宮崎駿初監督作品『ルパン三世 カリオストロの城(1979)』がつくられました。
さて、ここからは結論に向かいたいと思います。
「昭和の何が良かったか」というと、不便な分、苦労する分、知恵が生まれ、感覚が発達し、感情が育ったという点ではないかと思います。
苦悩が人間を成長させたということです。
そして、歌が生まれ、共感が生まれた。
現実が厳しい分、殺人(※)も交通事故死(※)も多かったけど、今ほど人間がせこくはなかった。
強烈な自己中もいたが、今ほど自然に自己中なわけじゃなくて、ある種の後ろめたさもあった。
後ろめたいから、ウソをついたことにも苦しみ、追い詰められれば正直に告白することもあったのです。
それを良心の疼きと言ってもいいでしょう。
今ほど都会的なセンスが磨かれていないので、野暮ったくて田舎くさい感じの人ばかりだったけど、一方では、今ほど気を使えない要領のない知恵足らずの人間が多くありませんでした。
小学校の運動会では騎馬戦と棒倒しがあり、組体操でも大きな五段ピラミットや三段タワーもあって、けっこう命懸けでした。というか、日常でも子どもが今より危ないことをするのが許されていました。子どもながらに自ら危険を担う責任感もあったと思うのです。
今より早く大人になるのが自然だったということです。
戦中の若者なんて、特攻隊の遺書とか読むと、ありえないほど大人だったのだと思います。
逆に言えば、今という時代は、人間が大人になることができない時代だと思うのです。
大人になれないから、社会人にもなれず、ニートになり、パラサイトになり、引きこもってしまう。
たとえ仕事をしていたとしても、評価を得られず、万年派遣社員に甘んじている。正社員になっている人も、仕事だけで精一杯で、恋人が欲しいとか、結婚したいとか、思うこともない。だから、少子化が進む。
若者が、子どもを育てられるほど精神が成熟していないので、産んでも、虐待や放置で子どもが簡単に死んでしまう。
昭和のキーワードは、野蛮・不便・忍耐・成熟・自己責任・共感の六つです。
一方で、平成・令和のキーワードは、繊細・便利・未熟・自己都合・依存・演技の六つです。
今の時代、昭和と比べて、いろいろな面で便利で守られているのに、若者の内面には、昭和にはあまり見られないような根深い〈あきらめ〉があるように思います。
その〈あきらめ〉の元凶は、依存心と堪え性のなさなのかもしれません。内面の肝心の部分が鍛えられていない。あまりにへなちょこなのです。
昭和と平成・令和を隔てるキーワードの一つは父親像・母親像だと思います。
「波止場だよ、お父つあん(美空ひばり/1956)」「母恋吹雪(三橋美智也/1956)」「おやじの唄(吉田拓郎/1972)」「おやじの海(村木賢吉/1972)」「親父の一番長い日(さだまさし/1979)」
昭和の歌、特に70年代までの歌には父親について歌う曲が多いのです。
母親を歌う曲も多いです。
「東京だよ、おっ母さん(島倉千代子/1957)」「おふくろさん(森進一/1971)」「岩壁の母(二葉百合子/1972)「無縁坂(グレープ/1975)」「人間の証明(ジョー山中/1977)」などですね。
一方で、平成・令和に特徴的なのは、父親・母親の不在(存在感の希薄さ)です。
父親・母親という支えにもなるけれど、時に恐くて厄介で面倒な存在の欠如は、現代の若者たちの責任感や自立心や忍耐力や包容力や共感力の欠如につながっている気がします。
現代の若者たちの多くにとって、昭和世代の暑苦しくも濃厚な存在感を放つ父親観・母親観は理解不能でしょう。
だから、「親ガチャ」とか言って、すべてを運命のせいにしてしまえるのです。
そして、思うようにならない灰色の現実を拒絶し、「何もかもリセットしてしまいたい」というムリな願望を抱くようになります。
つまりは、家族も友人も経歴も能力も身体も、すべて捨てて、「異世界転生」するという逃避文化が流行ることになるのです。
こうした平成・令和の「虚弱さ」と比べれば、昭和は何とたくましいのでしょう。
現代から見れば、昭和は「諦めないたくましさ」のかたまりのようです。
そうした「生への執着」、もっと言えば「現実に何かを刻むことへのこだわり(執念)」こそが、私たちが昭和から学ぶべき第一の要素かもしれません。
※殺人件数▶︎1955(昭和30)年⇨2119人▶︎1965(昭和40)年⇨1406人▶︎1975(昭和50)年⇨1429人▶︎1985(昭和60)年⇨1017人▶︎1995(平成7)年⇨727人▶︎2005(平成17)年⇨600人▶︎2015(平成27)年⇨314人▶︎2024(令和6)年⇨221人
※交通事故死件数▶︎1970(昭和45)年⇨16,765人▶︎1975(昭和50)年⇨10,792人▶︎1985(昭和60)年⇨9,261人▶︎1995(平成7)年⇨10,686人▶︎2005(平成17)年⇨6,937人▶︎2015(平成27)年⇨4,117人▶︎2023(令和5)年⇨2,678人