日本人の眉は、近年、若者を中心に、ますます細く薄く淡くなっているように見える。

とは言え、日本人にとっては、昭和の時代から、眉を細く薄くするのが一般的な美意識の現れであった。

これには、江戸時代の浮世絵(歌麿とか)の美人画の描き方などに美意識のルーツがあるのかもしれないし、さらに遡って、平安時代の貴族の女性の眉剃りの風習に伝統のルーツがあるのかもしれない。

しかし、この日本伝統の細眉を好む傾向は、昨今、あまりに極端になってきている気がする。

ともかく、現代の日本では、イモトアヤコさんのように、お笑い的個性を狙うのでなければ、男性も女性も、眉を太く濃くすることはまずない。

ブルック・シールズ(1982年カネボウCMで来日)やリリー・コリンズ(2012年映画『白雪姫と鏡の女王』で初主演/来日)やカーラ・デルヴィーニュのような極太眉は、この国では一時的な刺激は与えても、絶対にモードの主流として流行ることはない。「細く薄く淡い眉こそが美しい」と、そう考えるのが、この国ではあくまでも普通(スタンダード)の感覚なのである。


ところが、この日本の常識もまた、世界の常識とは言いがたい。

例えば、イタリアの超人気テレビドラマ・シリーズ「DOC 明日へのカルテ」(2020〜)では、ジュリア、カロリーナ、チェチーリア、アルバなどドラマの中のヒロインたちの眉がクッキリと太く濃く目立っている。特にエリーザの超極太で漆黒の眉は、日本ではまず見られないもので、一見の価値がある。加えて、アンドレア、エンリコ、ガブリエル、ロレンツォ、ダミアーノなど男性陣の眉も、とても太く濃く野生味にあふれる感じである。

また、フランスの超人気テレビドラマ・シリーズ「アストリットとラファエル 文書係の事件録」(2019〜)でも、主人公の一人ラファエルの眉は相当に濃く太い。主要な登場人物の1人ウイリアムの眉も太いし、アストリットの恋人役の日本人俳優齊藤研吾さんですら、フランス人の美意識に合わせてか、かなり太い眉になっている。

同じフランスの人気テレビドラマ・シリーズ「バルタザール 法医学者捜査ファイル」(2018〜2022)でも、ヒロイン級の登場人物であるカミーユやオリビアの眉はとてもクッキリしている。

いずれのドラマにおいても、日本のような超極細眉の人はほとんど見当たらない。

そして、「日本人の考える太眉など、欧州では細眉と見られるレベルの細さに過ぎない」ということが、これらのドラマを観れば理解できるだろう。


思うに、眉を細く薄く淡くしたがるのは、日本、中国、韓国、台湾など東アジア文化圏特有の美意識なのではないだろうか。そして、そのもともとの発信元は、おそらく日本だ。そこから韓国や中国へと流行の発信源が移動していっているのだろう。

そして、少なくとも、眉の細さと薄さを尊ぶという感覚は、欧州文化圏の美意識においてはうすいように思う。

これには、東洋人と西洋人の顔の彫りの深さの違いも関係しているのだろう。太眉は彫りの深い西洋人の顔にこそ、よりフィットするのは確かだ。

しかし、それとは別にしても、私としては、眉毛を抜かず、自分の自然な眉の太さや濃さを受け入れている欧州の美意識のあり方の方が、むしろ、自由で健康的だと感じられる。

そういう面で、欧州の感覚を取り入れるような国際化は個人的には大歓迎なのだが、こういう開放的な美意識は、伝統的に手の込んだ作為を好む、この国ではあまり広まってくれない。残念なことだ。

どうも「日本国民の間では『強い政府は悪い政府』という偏向した思い込みがある」ように思う。

この極端な思い込みは、連綿と続けられてきた戦後教育によって、日本人の精神のかなり深いところに刻まれており、たとえものを知らない中学生ぐらいの少年少女と言えども、無意識にそう思っている傾向があるようだ。

「強い政府は悪い政府だ!」と。

憲法改正を目標に掲げ、選挙では連勝を続け、党内ではライバル不在で強い指導力を発揮した安倍政権などは、そうした〝悪い政府〟の代表だったと言えるだろう。

しかし、本当に安倍政権が他国並みの〝強い政府〟であったなら、コロナ禍での市民の外出禁止やパチンコ営業停止を強要できたはずだし、兵器輸出や独自核武装も実現しているはずだ。外国人による土地の買い占めも阻止できたはずである。しかし、現実はそうではない。安倍政権と言えども、国際的な基準で考えれば、強権的な指導力や市民への強制力に乏しい〝弱い政府〟に過ぎなかったのだ。


戦後、憲法学者は「平和憲法は強権的な政府の圧政を抑制するためにある」と宣い、歴史学者は「戦前・戦中の軍国主義の先鋭化こそが、強い政府が悪であることを証明している」と主張してきた。

しかし、私は、歴史的にも現在においても日本政府は基本的に「弱い政府」であると考えている。

憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して我らの生存と平和を保持しようと決意した」の部分と、その前文の内容に基づく9条は、国家の権限を縛り過ぎ、結果、独立国家としての条件を満たしていない最悪の条文だと思っているし、戦前・戦中の軍国主義については、政府が強かったわけではなく、むしろ、弱い政府の指導者が軍部の勝手な暴走を抑えきれなかったことが問題だったと考える。


そもそも、普遍的現象として、一般に、特に民主主義国家においては特徴的だが、危機において国民は強い政府を望む。だから、コロナ禍では、ほとんどの国で、政府支持率が軒並上昇した。具体的には人口比で日本の50倍の感染死者を出していた欧州やアメリカで、政府の支持率はどんどん上がっていった。その一方で、欧米よりはるかに犠牲者が少なく、コロナ患者の治療を完全に公費でまかなうという至れり尽くせりの政策を実施していた日本で、政府への支持は下がり続けた。

重症者には無料でエクモを使用し、1人の患者につき医師五人体制で手厚く治療を続けていたが、それでも、世界唯一のエクモ無料提供国である日本でだけは、国民の政府への不満は高まり、国民の過半数が「政府は適切な政策をとっていない」と考え、政府に不信感を抱いていた。


一方、アメリカでは、コロナで2週間入院したら400万円の治療費を患者が自腹で支払わねばならなかった。コロナ禍で仕事もないのに、そんな大金はとても払えない。だから、皆、具合が悪くなるギリギリまで病院へ行こうとしなかった。それで、手遅れになり、亡くなる人が多かったのかもしれない。

日本では、たとえ重症化しても、治療費1千万円を超えるエクモ治療費用さえ全て政府が肩代わりしてくれたので、感染者は安心して医療機関へ治療を求めることができた。だから、日本では死者が増えず、重症化しても助かる人が多かったのかもしれない。


欧米では、コロナ基幹病院でエクモを使用している国など聞いたことがない。挿管しても肺が酸素を吸収できなくなれば、それ以上、打つ手はなかったのだ。そもそも患者の自腹でエクモ治療して、それでも亡くなったら、遺族に数千万円の借金が残ることになる。それは一般市民の多くにとって現実的な治療手段ではなかったろう。

ともかく、日本の治療環境は、他国と比べれば至れり尽くせりと言ってよいもので、そのおかげか、日本のコロナ死者数は少なかった。欧米と比較して50分の1、100分の1の少なさだった。にもかかわらず、それでも、市民の政府への非難の声は、欧米より日本の方が大きかった。

一般に日本人は、政府への不信感が大きく、弱い政府であることを求めながら、同時に政府への依存が強く、政府への注文が多い。依存しながら、不信感の塊で、文句を言い続ける。残念ながら、それが今日の日本国民の政府への態度の典型であるようだ。


欧米では危機において、政府を支えようという国民意識が強く働き、政府の強い指導力が求められた。ところが日本ではそうではなかった。「危機を口実にして強い政府が生まれる」ことを忌避する意識の方が勝っていたのだ。

それほどに、今日の日本人は自国政府を信じることができず、そのため、危機においても政府を支えようという国民の意欲がまったく高まらない。

こうした状況は、国民を主権者とする民主主義国家ではあるまじき状況で、きわめて危機的、あるいは末期的とも言える。

ところが、当の日本人自身はそうは思っていないらしい。

それほどに『強い政府は悪い政府』という思い込みの呪縛は深刻で、この国の政治状況を蝕む最大の要因となっている。


私がここで最後に一つ指摘しておきたいのは、こうした『強い政府は悪い政府』という考え方自体の是非ではない。そうではなく、強調したいのは「日本の常識は、必ずしも世界の常識ではない」ということだ。

国際的には、一般に、特に危機においては、諸国民は強い政府、強い指導者を求める。これは人類史上における一般的傾向である。だから、トランプやプーチンや習近平や金正恩が国民の大多数の支持を集め、欧州やイスラエルでもナショナリズムを標榜する極右政党が支持を得て躍進する。

現実の国際社会は「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼できる」状況ではないのだ。

であるなら、「自らの生存と平和は自らの意志と力で保持しなければならない」のは自明の理である。



8月6日の日テレNEWSで、祖父が広島・長崎で被爆した被爆者3世の日本人と、広島・長崎に原爆投下した航空機乗組員の孫のアメリカ人が、仲良く原爆ドームに向かって祈っていた。

このアメリカ人は、これまでにも多くの被爆者と会って話を聞いてきたという。


ニュースキャスターが、このアメリカ人の若者に「あなたのお祖父さんが直接関わった広島・長崎への原爆投下は正しかったと思いますか?」と尋ねた。

しかし、彼は「過去に起こってしまったことについて考えるのは意味がないと思います、過去は変えられないから」と答えた。


それを聞いて、私は、彼は当事者の子孫として戦争犯罪の問題に直面することから避けた、逃げた、詭弁を弄した、都合よくごまかしたと思った。

アメリカ人の一般的見解では「原爆投下のおかげで戦争が早く終わり、結果として米兵の犠牲者(日本の民間人の犠牲者ではない)も少なくて済んだのだから、アメリカ軍による核兵器の使用は正しい選択だった」とされている。これはアメリカ政府の公式見解でもある。アメリカの学校では、今でも『原爆投下は正義』と教えられている。だから、この若者も、そう信じているのだろう。


しかし、当時、日本には軍艦や航空機や戦車に使用する燃料も弾薬もほとんど残っていなかった。日本の戦争継続能力はすでに破綻していたのだ。沖縄に特攻した戦艦大和だって片道ぶんの燃料しか積めなかった。当時の日本軍は〝矢尽き刀折れ〟の状態だった。したがって「戦争の犠牲を減らすために核兵器を使用した」というのは、まったくの詭弁である。

この時期には地上戦などやらなくても、B29による高度1万メートルからの無差別絨毯爆撃で、ほとんど日本軍の反撃を受けることなく、米軍の攻撃機隊の損害ゼロで、日本の各都市を次々と火の海に変えていたのだから。

大和魂で日本人の竹槍が高度一万メートルのB29に届くか、という話なのだ。

この上、新兵器(原爆)まで投入する必然性はどこにもない。


「戦争を早く終わらせるため」という公式の理由が詭弁であるなら、では本当の目的は何だったのか?

ドイツの教科書には書いてあることだが、原爆投下は、白人至上の人種差別主義者たちによる、黄色人種を実験材料とした人体実験だったのだ。そのため、わざわざ空襲の影響の薄い無傷の都市に落として、その被害状況を観察したのだ。

広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型が、それぞれ使用された。2種の原爆の威力を比較するためだ。

ドイツがアジア系のユダヤ人をアウシュヴィッツで大量虐殺したのと同じように、アメリカは原爆でイエローモンキー無差別虐殺を行なったわけだ。


たとえ日本の教科書には記載されていなくても、歴史的事実は明らかである。

そうした事実を学んでいるのかいないのか、アメリカの原爆投下の正当性に何の疑問を感じないアメリカ人の思い上がった若者と馴れ合うこの国の被爆者の子孫の姿勢には疑問を禁じえない。


また、被爆者たちは石破総理に「日本は80年平和だったが、これからも戦争しないように約束して欲しい」と要求していたが、これも理解に苦しむ。

日本が80年間外国から攻撃されなかったのは平和憲法のおかげではない。世界最強の軍事大国との同盟関係のお陰であり、同時に、日本がアジア地域で突出した経済・技術超大国であったためだ。しかし、そうした安定的状況は、すでに過去のものである。


アメリカの軍事的プレゼンスも、日本の経済的プレゼンスも、急速に凋落しつつある。

戦争とは、片方の国がどんなにしたくないと願っていても、もう片方の国が突然攻め込んでくることがあるのだ。

そもそも、日本が周辺国に戦争を仕掛ける可能性などまったくない。問題は軍拡を続ける周辺核保有国の側にある。だから、石破首相に向かって言うよりは、習近平や金正恩やプーチンやトランプやネタニヤフに「戦争するな」と言った方が良いと思うのだ。


また、広島市長は広島の平和式典の演説で、核抑止の効果を否定する発言をしていたが、それは、中国・北朝鮮・ロシア・アメリカと核保有国に囲まれ、韓国でさえも独自核武装議論が進む中で、我が国の地政学的な状況を無視して、『日本だけは独自核武装はもちろんアメリカとの軍事同盟による核の傘すら必要ない』とする実にナイーブな意見表明であったように思える。


このような『日本の核武装は信じないが、周辺国の核武装は信頼する』という彼の奇妙に偏った非論理的態度は、ある意味、この国の反核主義者に典型的な姿勢ではある。

極端な例ではあるが「アメリカの核は悪の核、北朝鮮の核は正義の核」と発言する学者すらいる。

核兵器に正義とか悪とかあるだろうか。ともかく、「周辺国がどれほど核武装しようと、日本は核武装すべきでない」というのが、この国の反核論者のコンセンサスであるようだ。

しかし、こうした核抑止を否定する態度は、国防についての世論の形成に影響力を持つ学者・政治家・ジャーナリストの発言としては極めて無責任な発言であるように思える。


広島の慰霊碑に刻まれている「過ちは繰り返しません」という文字は、「(我々人類は)原爆投下という過ちは2度と繰り返しません」という意味であると、一般に理解されている。

しかし、投下した当事者の子孫であるアメリカ人の大多数が原爆投下を過ちと思っていない現状では、このような誓いに意味があるとはまったく思えない。

日本のように核兵器の保有や使用をタブー視する国は、他にない。

むしろ、核兵器など、いつ再び使用されてもおかしくないのが世界の現状である。


特に、攻撃範囲を限定する戦術核兵器であれば、なおさら、いつ使用されてもおかしくない。そうした限定的な核使用が、ついには戦略核兵器の使用にまでエスカレートしないとも限らない。

それを防ぐのは、はたして核保有国やその同盟国が一つも加盟していない無力な核兵器禁止条約か、それともパワーバランスの均衡による核抑止か、公正に現実的に考え、真摯な議論を重ねるのは主権者である日本国民の義務であろう。


日本国憲法 前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、 国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


日本国憲法の前文の全文を上記した。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい(そんな国際社会がどこにある?)」

「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない(どこも自国の国益を最重視だろ!)」

「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる(信じるのは勝手だが…。)」

等々、確かに「崇高な理念」が記されている。

ここで記されている「われら」とは誰か、「名誉ある地位を占めたい」とは誰が占めたいのか、「信ずる」とは誰が信じるのか。

当然、その主体は、憲法をつくった人々であり、その人々とは、この国の主権者である国民自身、あるいは、その代表者ということになっている。

この点については、上記の前文に以下のように記してあることからも明らかである。

「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

「これ(国民主権)は人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」

「われらは、これ(国民主権の原理)に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」


しかし、上記の前文の内容は、本当に、日本国民の総意であると言えるのか。実は、一度たりとも確かめられたことがないのである。

そう考えると、上記の前文は、壮大なフィクションであり、誤解を恐れずに言うならば、重大なごまかしの上に成り立つ砂上の楼閣である

特に問題をはらむのは、以下の部分である。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

理念は素晴らしい。

『あらゆる国家、あらゆる民族が平和を愛しており、それらの国々の公正と信義は信頼に足る』

『だから、この国に攻めてくる脅威は存在しないと信頼し、われらは武装せずとも安全であり、われらの生存は恒久的に保持できるという考えに基づいて国家を形成・運営しようと決意した』

こうした前文の精神に基づいて、「戦力を持たない」「交戦権を保持しない」という、前代未聞・空前絶後の憲法9条が生まれた。

クェーカーやアーミッシュなどといった信仰共同体であれば、そのような宗教的決意もあり得るだろう。しかし、雑多な主義・信条・信仰を有する日本国民が、総意として本当に上記の崇高な理想を深く自覚したのか、そして、その理念に殉じると「決意した」のか。さらには、それを誰がどうやって確認したのか。実は誰も知らないのである。

そこに問題がある。


一番重要な問題は『信頼には常にリスクが伴う』という事実である。

はたして、われわれは、今日、真実、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるのか。

日本の周辺国であるロシア、中国、北朝鮮、韓国、アメリカについて、われわれは本当に信頼できるだろうか。

この点に関して、個人の理念として「信頼できる」と「決意する」のは、信条として立派である。

しかし、国の最高法規として、根拠もなく「信頼できる」と「(日本国民は)決意する」と記したのは、いささか軽率ではなかっただろうか。

その「信頼」が破られた時のリスクを負うのは国民である。であるなら、この前文の内容は、真に国民自身が「信頼できる」と決意したものでなければならない。

戦力を持たず、交戦権もなく、外国によって日本の国土と国民が蹂躙され、占領・支配・亡国の憂き目を見たとしても、それが自ら決意した結果であれば、自己責任で自らの信条に殉じたわけであって、同情の余地はない。

しかし、実際には、上記の前文の問題点について、国民的な議論がなされたことは一度もない

それはなぜか。

最大の問題は教育にある。


この国の教育には、伝統的に「書かれたものは信じる」という文化がある。特に権威ある文章については無批判に信じる傾向がある。

この国の憲法学者は、憲法を批判的に論じることなく、憲法という権威を高めることに努めることで、自らの権威を高めるのだ。

言い換えれば、この国の憲法学者は、本質的には国民主権を信じていない。国民が憲法を批判し、議論し、変えていくことを良しとせず、むしろ、国民の意思の上に憲法を置こうとするのだ。

その意味では、憲法学者にとって、日本国憲法は宗教的な『聖典』のようなものである。

この憲法の内容、特に「前文」などは、『人類の普遍的な理念を記したものであり、永遠不変の理念であるから、主権者である国民といえども変えることはできない』と主張する学者さえいるようだ。

そうなると、憲法の内容は、まったく議論の対象にならない。この国の学者・教育者・メディアは、そうした『決して憲法を批判しない』という態度を貫いてきた。

だから、最近になって、ようやく憲法9条を問題視する人は増えてきたが、「前文にこそ、根本的な問題がある」と批判する人は、いまだにほとんどいないのではないだろうか。

これこそが『憲法前文の呪い』である。


この呪いを解き、憲法前文及び第9条を改正しない限り、この国では『独自核武装の是非についての国民的な議論』が、現実的なものにはなり得ないし、そうである以上、この国の平和と安全を保持することは、現実的には不可能なのである。

なぜなら、わたしたち(日本国民)は、自国ファーストが当たり前の今日の情勢において、もはや周辺国(米露中韓北)の公正と信義を信頼していないからだ。

周辺国のほとんど(米露中北)は核武装しているし、韓国でさえ、独自核武装の是非についての国民的議論がある。

そして、我が国の経済力は、かつてのように東アジアにおいて圧倒的な巨人ではない。

それどころか、中国経済は既に我が国の3倍の規模を有しており、中国・韓国・台湾には先端技術産業で後塵を拝し、資源大国ロシアのような経済の自立性も持ち得ない。

今日の日本は、経済的にも軍事的にもあまりにも脆弱な国家である。

そして、経済も軍事も、丸ごとアメリカに依存している。

しかも、この依存は、日本国民が、アメリカの公正と信義に信頼して、われらの平和と安全を保持しようと決意した結果というわけではない。

何の理念も信条も独立心も対等の意識も意地もなく、ただアメリカの策略に対して無抵抗・無防備に全面依存しているだけである。

このような他律的で脆弱な国家は、周辺状況の変化によって、簡単に滅びてしまう。例えば、この国は遠からず中国に飲み込まれてしまうかもしれない。

そうしたどうしようもない依存性と他律性が、今日の日本国の情けない姿に目立つ特徴であり、その国家の姿は、主権を有する日本国民自身の貧弱な姿の反映でもある。

上記のような現状の日本の危機を招いている元凶の一つが〈前文の呪い〉なのである。


最後に、この呪いを打ち破る言葉を記そう。

「書かれたものを疑え!」

「権威を疑い、自分で考えてみよう。」

「一身独立(自立)して一国独立す(福沢諭吉)」


われわれ(日本国民)は、亡国を回避し、独立した国家として平和と安全を保持するために、前文と9条を捨てて、最小限の独自の核抑止力を持たなければならない

その第一歩として、われわれ個人個人が、依存心を克服して精神的に自立しなければならないだろう。

親に依存しないように生活し、権威に依存しないように思考しなければならない











昭和の魅力とは何か?

令和の昨今、昭和は〈エモい〉とか言われて、昭和を知らない世代の若者たちにもてはやされています。

昭和と言っても、その期間は非常に長いわけですが、例えば昭和30年代(1955〜1964)から昭和40年代(1965〜74)にかけての活気に満ちた高度経済成長期などは、昭和を生きた我々から見れば、エネルギッシュで希望に満ちている明るいポジティブなイメージがあります。が、やはり、その当時の風俗や文化は、現代の若者たちから見れば、古すぎるというか、ついていけないというか、ある種の文化的な断絶(距離)があるようです。

それよりも、その後の昭和50年代(1975〜1984)から昭和60年代(1985〜1989)にかけて、経済大国となった日本の工業力が世界を制していた繁栄の頂点とも言える昭和末期の時代の風俗・文化が、現代の若者にとっては〈昭和レトロ〉として非常に新鮮に魅力的に映っているようです。


つまり、現代の若者たちにとって魅力的な昭和というのは、せいぜい昭和50・60年代(1975〜1989)の昭和の最後の時期であって、音楽・芸能で言うなら、山下達郎・大瀧詠一・稲垣潤一・南佳孝・寺尾聰・オフコース・来生たかお・伊勢正三・五十嵐浩晃・杉山清貴・山本龍彦・ブレッド&バター・佐野元春・大沢誉志幸・鈴木雅之・林哲司、八神純子・竹内まりや・松原みき・杏里・泰葉・ユーミン・大貫妙子・吉田美奈子・尾崎亜美・大橋純子・庄野真代・EPO・中原めいこ・矢野顕子・菊池桃子・丸山圭子など、いわゆるシティポップ・アーティストの活躍の黄金時代であり、同時に、松田聖子・中森明菜・小泉今日子・中山美穂・斉藤由貴・薬師丸ひろ子・岡田有希子・本田美奈子、田原俊彦・近藤真彦・チェッカーズ・イモ欽トリオ・吉川晃司・シブがき隊・少年隊・光GENJIなど80年代アイドルの全盛期なのではないかと思うのです。


そこから遡ったとしても、彼らZ世代が心惹かれるのは、せいぜい70年代後半のアイドルである山口百恵・岩崎宏美・太田裕美・キャンディーズ・ピンクレディー・桜田淳子、西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎・沢田研二・太川陽介・清水健太郎らの時代までというか、ミュージシャン(アーティスト)で言うならば、70年代後半から末にかけてブレイクしたゴダイゴ・クリスタルキング・YMO・サザンオールスターズ・矢沢永吉・松山千春・長渕剛・さだまさし・アリス・甲斐バンド・チューリップ・世良まさのり・因幡晃・柳ジョージ、久保田早紀・渡辺真知子・下成佐登子・高橋真梨子・中島みゆき・イルカ・沢田聖子・谷山浩子・五輪真弓・サーカス・ハイファイセット・山崎ハコ・大友裕子・森田童子あたりまでという感じです。


それ以前の時代の音楽、石原裕次郎・小林旭・舟木一夫・西郷輝彦・橋幸夫・森進一・北島三郎・千昌夫・五木ひろし・三波春夫・村田英雄・春日八郎・三橋美智也・フランク永井・菅原洋一・藤島桓夫・田端義夫・鶴田浩二・神戸一郎・アイ・ジョージ・坂本九・前川清、美空ひばり・島倉千代子・江利チエミ・八代亜紀・都はるみ・青江三奈・ちあきなおみ・いしだあゆみ・奥村チヨ・五月みどり・畠山みどり・コロンビアローズ・大津美子・宮城まり子・二葉百合子・加藤登紀子・西田佐知子・倍賞千恵子・ザ・ピーナッツ・こまどり姉妹・藤圭子・由紀さおりといった、昭和30・40年代(1955〜1974)の演歌・ムード歌謡・懐メロの時代の音楽は、平成・令和育ちの現代の若者にとっては、かなり心理的距離があり、さほど心惹かれる魅力的なものではないようです。


しかし、この記事では、平成生まれ、令和育ちのZ世代の若者にとっての昭和の魅力ではなく、なるべく客観的に(戦後の)昭和と平成以降の社会・生活・文化を対比して、世情や価値観の違いを明らかにし、昭和に育った人と平成以降に育った人の相違点を論じ、その上で、昭和の光と影を浮き彫りにしてゆき、平成以降と比べて昭和の何がよかったのかを考察してみたいと思います。


昭和(〜1989)と平成(〜2019)の際立った違いの一つは、民間テクノロジーの激変・発達です。

昭和には、パソコンもインターネットも庶民のものではなかったし、移動電話もビジネス用にトランシーバー並みにゴツくて巨大なものしかなく、仕事用として自動車で持ち運ぶぐらいがせいぜいで、とても私用で気軽に携帯できるものではありませんでした。

そもそも一般の素人がパソコンでネットを自由に観られるようになったのは、マイクロソフト社のWindows’95ソフト(1995)が発売されて以降のことです。しかも、昭和の時代のテレビやパソコンなんて、ブラウン管でしたからね。とってもゴツくて重くてかさばりました。液晶テレビなど薄型ディスプレイのテレビが普及するのは2000年代の後半からです。

携帯についても、今のガラケーに近いものが発売されたのが1999年、スマホが発売されたのが2008年です。

すべて平成になってから生まれたものであって、昭和の時代にはポケベルすらなかったのです。


とは言え、昭和でも、1979年を境に技術革命が起きました。それがウォークマンの発売です。これ以降、散歩をし、電車に乗り、街を歩きながら、個人的に好きな音楽を聴くことができるようになりました。

この時代、ラジカセでFMラジオをエアチェックして、好きな曲を集めたオリジナルのカセットテープをつくる人が多かったし、針によるレコードの劣化を防ぐために、購入したレコードは、すぐカセットテープに録音して聴きました。レコードは傷みやすいナマモノでしたから。

一方、CDがLPを国内生産枚数で逆転したのは1986年のことです。そして、この年、山下達郎は初のデジタルレコーディング・アルバム『POCKET MUSIC』をリリースしました。昭和末期は、アナログからデジタルへの過渡期だったと言えるでしょう。


この昭和末期(80年代)、同時期のシティポップとは一線を画する時代の代弁者や糾弾者や警告者として、あるいは炭鉱トンネルのカナリアのように人々に警鐘を鳴らすカリスマ的なミュージシャンとして、浜田省吾、尾崎豊、THE BLUE HEARTSなどが活躍していました。

浜田省吾のエポック・メイキング・アルバム『PROMISED LAND(1982)』、尾崎豊のデビュー・アルバム『十七歳の地図(1983)』、ブルーハーツのデビュー・アルバム『THE BLUE HEARTS(1987)』などの強烈なメッセージ性、そして、人の魂を揺さぶる共感力は、今聴いてもまったく色褪せないものです。


彼らの挑戦は、昭和末期の時代の多くの若者たちの挑戦でもあったのだと思います。その挑戦の中身は「(お金を儲けることよりも)より人間らしく生きる中で幸福を追求することはできるか」ということでした。しかし、その挑戦は、平成に入って行き詰まり、挫折へと追い込まれていきます。

尾崎豊の死(1992/26歳)は、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995)、X JAPANのhideの死(1998)などとともに、冷戦終結及びバブル崩壊後の平成の挫折を象徴する事件でした。


尾崎豊が亡くなったのは26歳の時ですが、海外ではロックのスーパースターが27歳で亡くなることが多くて、27クラブという有名な言葉があります。

ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ドアーズのボーカルだったジム・モリソン、ニルヴァーナのフロントマンだったカート・コバーン、エイミー・ワインハウス、皆、27歳で死んでいきました。

死因は、ほとんどが薬物の過剰摂取などによる事故死、あるいは自殺でした。


人が大人になろうとする時、最後の壁が現れるのが25歳ごろなのではないかと私は思っています。

その壁の内容は「私は、この世界で、どうやって生きていけばいいのか?」という命題です。その命題に向き合い、自分なりの答を掴み、壁を乗り越えることができなければ、人はその先を生きていくことができないのではないでしょうか。そして、この答を見つけようとする葛藤は、25歳より以前から数年に及ぶこともあるでしょう。

いずれにしても、答を見出せないまま、25歳を過ぎてしまうと、「もう自分は一歩も前へ踏み出すことができない」という苦しい状況に追い込まれていきます。


これには人間の生命力の成長のピークが25歳であることと深い関係があるのではないかと考えています。

「25歳で超えられない壁は、それ以降も決して超えられない」と人は自然と感じるのかもしれません。

豊かな鋭い感性を持つアーティストの中には、時代精神との無謀とも言える孤独な格闘の中で、自分なりに生きていく術を遂ついに見出すことなく命を散らせた若者たちがいるのだろうと思うのです。

その代表が、27クラブであり、尾崎豊だったのではないでしょうか。

70年代の閉塞感が27クラブという犠牲を生んだように、平成の閉塞感が尾崎豊を殺したのかもしれません。


1980年代の挑戦と挫折をよく現していると私が感じる3つのアルバムがあります。

それは1980年リリースの河島英五の『文明Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』と、1990年リリースの中島みゆきの『夜を往け』と、同じく1990年リリースの浜田省吾の『誰がために鐘は鳴る』です。

『文明Ⅱ』のラストの「エンジンを止めてくれ」を聴き、『夜を往け』のスタートの「夜を往け」とラストの「with」を聴き、『誰がために鐘は鳴る』のラストの「夏の終り」を聴くと、1980年代とはなんだったのか、一つのイメージがつかめるのではないかと思います。


話変わって、高度経済成長期(1955〜1973)についても、1964年の東京オリンピックをクライマックスとする昭和30年代と翌1965年の40年不況から始まる昭和40年代には、ある種の変化・断絶があるように思います。

例えば、テレビ・アニメを考えてみても、

◯昭和30年代後半⇨鉄腕アトム(昭和38年)・鉄人28号(昭和38年)・エイトマン(昭和38年)、狼少年ケン(昭和38年)などの作品に見られる明るいポジティブな躍動感とは対照的に、

◯昭和40年代前半⇨巨人の星(昭和43年)・妖怪人間ベム(昭和43年)・忍風カムイ外伝(昭和44年)・タイガーマスク(昭和44年)・あしたのジョー(昭和45年)・みなしごハッチ(昭和45年)などの作品では、非常にネガティヴな陰鬱さが表現されています。


「鉄腕アトム」は、事故で息子を失った科学者が息子の生まれ変わりとして作り上げたロボットですが、この生みの親はアトム本人のアイデンティティは認めず、自分の願ったような息子にならなかったとアトムを捨てます。アトムを引き受けて大切に育てるのは縁もゆかりもないお茶の水博士です。アトムに人間を恨むようになってほしくないというのが博士の願いでした。

鉄人28号は、もともと旧日本軍が殺人機械として開発していたロボット兵でした。

アトムも鉄人も、「科学技術(兵器や原子力)は、それを利用する人間次第であり、私たちはその責任を負っているのだ」という力強い思想が感じられる作品です。


昭和30年代のアニメ作品には、「たとえ厳しい現実の中で葛藤があったとしても、最終的には、〈科学〉や〈人間性〉を人は信頼することができるのだ」という肯定的で希望に満ちたメッセージが感じられます。

一方で、昭和40年代前半のアニメ作品には、「人間の〈悲しみ〉や〈狂気〉や〈運命〉は、人間の努力ではどうにもできないこともある(悪意が善意を蹂躙することもある)」という懐疑的で暗いメッセージが強く感じられる作品が多くあり、しかも、そうした重すぎる内容の作品が、当時、幼稚園児にも観られていたというのは驚くべきことです。


例えば、星飛雄馬の父親の教育は、今の基準で考えれば、確実に児童虐待ですし、ハッチはもちろんですが、伊達直人も矢吹ジョーも、生まれた時から親のいないみなしごです。ジョーなど少年院にまで入ります。

カムイもまた、忍者の里を裏切って抜け忍となり、追っ手に追われながら、たった1人で逃れ続ける逃亡者です。その状況は、虎の穴を裏切って、処刑人の魔の手から逃れ続ける伊達直人にも似ています。

ベムたちの場合は、人間ですらなく、いつか本当の人間になりたいと渇望しながら、闇に隠れて生きる人造人間の怪物なのです。しかも、この世に生まれ出たのは、偶然、打ち捨てられた研究設備で生じてしまった異物のような扱いです。彼らは、人間を助けるために邪悪なるものと戦うのですが、その一方で、助けた人間によって追い詰められ、抹殺されてしまうのです。

「巨人の星」を除く、上述の5作品では、誰に望まれて生まれたわけでもなく、理不尽で冷酷な世間の嫌われ者として、邪魔者として、あるいは抹殺の対象とされながら、それでも生きていく主人公たち(伊達直人・矢吹ジョー・カムイ・ハッチ・ベム、ベラ、ベロ)の悲哀と苦悩と苦闘が描かれています。

物語のトーンとしては、どれも、かなり、絶望的です。


ただ、両者の共通点は、昭和30年代アニメも、昭和40年代アニメも、人間性や社会の本質に深く迫るような筆力を持って、とても真面目に作られていたことです。

今、それらのアニメ作品を再び観てみると、当時の大人たちは、何らかの意味あることを、未来を託す子どもたちに伝えようとして、とても一生懸命だったのだろうと感じます。

そのような強い使命感は、現在のモノづくりの現場では、あまり見られないかもしれません。

また1970年代アニメ(昭和45〜54)には、現在まで人気が続く有名アニメ・シリーズも、数多く始まっています。例えば『天才バカボン(1971)』『ゲゲゲの鬼太郎 第二シリーズ(1971)』『ルパン三世(1971)』『海のトリトン(1972)』『マジンガーZ(1972)』『バビル2世(1973)』『ドラえもん(1973)』『エースをねらえ!(1973)』『キューティーハニー(1973)』『アルプスの少女ハイジ(1974)』『宇宙戦艦ヤマト(1974)』『フランダースの犬(1975)』『ガンバの冒険(1975)』『まんが日本昔ばなし(1975)』『あらいぐまラスカル(1977)』『ヤッターマン(1977)』『未来少年コナン(1978)』『機動戦士ガンダム(1979)』『ベルサイユのバラ(1979)』などです。

劇場用映画では、海外でも評価された『銀河鉄道999(1979)』や宮崎駿初監督作品『ルパン三世 カリオストロの城(1979)』がつくられました。


さて、ここからは結論に向かいたいと思います。

「昭和の何が良かったか」というと、不便な分、苦労する分、知恵が生まれ、感覚が発達し、感情が育ったという点ではないかと思います。

苦悩が人間を成長させたということです。

そして、歌が生まれ、共感が生まれた。

現実が厳しい分、殺人(※)も交通事故死(※)も多かったけど、今ほど人間がせこくはなかった。

強烈な自己中もいたが、今ほど自然に自己中なわけじゃなくて、ある種の後ろめたさもあった。

後ろめたいから、ウソをついたことにも苦しみ、追い詰められれば正直に告白することもあったのです。

それを良心の疼きと言ってもいいでしょう。


今ほど都会的なセンスが磨かれていないので、野暮ったくて田舎くさい感じの人ばかりだったけど、一方では、今ほど気を使えない要領のない知恵足らずの人間が多くありませんでした。

小学校の運動会では騎馬戦と棒倒しがあり、組体操でも大きな五段ピラミットや三段タワーもあって、けっこう命懸けでした。というか、日常でも子どもが今より危ないことをするのが許されていました。子どもながらに自ら危険を担う責任感もあったと思うのです。

今より早く大人になるのが自然だったということです。

戦中の若者なんて、特攻隊の遺書とか読むと、ありえないほど大人だったのだと思います。


逆に言えば、今という時代は、人間が大人になることができない時代だと思うのです。

大人になれないから、社会人にもなれず、ニートになり、パラサイトになり、引きこもってしまう。

たとえ仕事をしていたとしても、評価を得られず、万年派遣社員に甘んじている。正社員になっている人も、仕事だけで精一杯で、恋人が欲しいとか、結婚したいとか、思うこともない。だから、少子化が進む。

若者が、子どもを育てられるほど精神が成熟していないので、産んでも、虐待や放置で子どもが簡単に死んでしまう。


昭和のキーワードは、野蛮・不便・忍耐・成熟・自己責任・共感の六つです。

一方で、平成・令和のキーワードは、繊細・便利・未熟・自己都合・依存・演技の六つです。

今の時代、昭和と比べて、いろいろな面で便利で守られているのに、若者の内面には、昭和にはあまり見られないような根深い〈あきらめ〉があるように思います。

その〈あきらめ〉の元凶は、依存心と堪え性のなさなのかもしれません。内面の肝心の部分が鍛えられていない。あまりにへなちょこなのです。


昭和と平成・令和を隔てるキーワードの一つは父親像・母親像だと思います。

「波止場だよ、お父つあん(美空ひばり/1956)」「母恋吹雪(三橋美智也/1956)」「おやじの唄(吉田拓郎/1972)」「おやじの海(村木賢吉/1972)」「親父の一番長い日(さだまさし/1979)」

昭和の歌、特に70年代までの歌には父親について歌う曲が多いのです。

母親を歌う曲も多いです。

「東京だよ、おっ母さん(島倉千代子/1957)」「おふくろさん(森進一/1971)」「岩壁の母(二葉百合子/1972)「無縁坂(グレープ/1975)」「人間の証明(ジョー山中/1977)」などですね。

一方で、平成・令和に特徴的なのは、父親・母親の不在(存在感の希薄さ)です。

父親・母親という支えにもなるけれど、時に恐くて厄介で面倒な存在の欠如は、現代の若者たちの責任感や自立心や忍耐力や包容力や共感力の欠如につながっている気がします。


現代の若者たちの多くにとって、昭和世代の暑苦しくも濃厚な存在感を放つ父親観・母親観は理解不能でしょう。

だから、「親ガチャ」とか言って、すべてを運命のせいにしてしまえるのです。

そして、思うようにならない灰色の現実を拒絶し、「何もかもリセットしてしまいたい」というムリな願望を抱くようになります。

つまりは、家族も友人も経歴も能力も身体も、すべて捨てて、「異世界転生」するという逃避文化が流行ることになるのです。

こうした平成・令和の「虚弱さ」と比べれば、昭和は何とたくましいのでしょう。

現代から見れば、昭和は「諦めないたくましさ」のかたまりのようです。

そうした「生への執着」、もっと言えば「現実に何かを刻むことへのこだわり(執念)」こそが、私たちが昭和から学ぶべき第一の要素かもしれません。



※殺人件数▶︎1955(昭和30)年⇨2119人▶︎1965(昭和40)年⇨1406人▶︎1975(昭和50)年⇨1429人▶︎1985(昭和60)年⇨1017人▶︎1995(平成7)年⇨727人▶︎2005(平成17)年⇨600人▶︎2015(平成27)年⇨314人▶︎2024(令和6)年⇨221人


※交通事故死件数▶︎1970(昭和45)年⇨16,765人▶︎1975(昭和50)年⇨10,792人▶︎1985(昭和60)年⇨9,261人▶︎1995(平成7)年⇨10,686人▶︎2005(平成17)年⇨6,937人▶︎2015(平成27)年⇨4,117人▶︎2023(令和5)年⇨2,678人