よく、「空気が読めない人」と言うが、「空気を読む」とはどう言うことだろう?
「読む」と言う動詞を辞書で調べてみると、
広辞苑
(外面に表れたものから)了解する。悟る。「腹を読む」「顔色を読む」「敵の作戦を読む」
小学館「日本語新辞典」
現象や人の行動などを見て、その真に意味するところや行き着くところを推察、また理解する。
大修館「明鏡国語辞典」
外面を見て隠された意図などを知る。読み取る。
現在の状況から将来のことを推察する。
...あたりが「空気を読む」の「読む」に当てはまりそうだ。
読み取ったことを基にして考え、その場に応じた適切な言動をすること。その場の状況、雰囲気を察する、気が利いている、と言うことだろう。
何事も「気づき」なんだろうな...と思う。それもさりげなく。見返りなしで。
目配り、気配り、心配り。
仕事だからする(出来る)のではなく、普段の生活からそれが出来るようになれば素敵。
ところで、空手の道場で、稽古の前と後に掃除をする。道場に対し、共に稽古をする人に対し感謝と尊敬の念を込めて、また綺麗であれば気持ちも良い。大抵は黒帯の大人(日本人)が率先しているが、開始や終了の時間帯の問題は別として、帯の色や年齢関係なく進んでやってくれる人が大勢出てくるといいが、なかなかうまくいかない。
始めは、「誰か手伝って!」と言えば、駆け寄ってくるが、いつも同じ顔ぶれ。今は言わなくてもやってくれる人が数人いるが、やはり同じメンツ。本人達の性格なのか、家庭の躾なのか...敢えて順番制とか、ましてや義務にはしたくないが、気づいてくれる人が増えることを望む。出来れば黒帯の若いイタリア人が率先してくれれば、将来の道場も頼もしくなるのだが。
個人的には、空手が上手いとか下手とか、組手が強いとか弱いとか関係なく、目配り、気配り、心配りが出来る人を育てたいと思う今日この頃。
現在滞在許可の問題でミラノに戻って来ている長男が、3年以上ぶりに昨日いきなり道場にやって来た。
太って道着はビチビチだし、体力も落ちてゼーゼー気味だったが、整列の際黒帯でありながら、白帯の最後の横に触り、稽古後の掃除も黒帯がやっている中、「変わります!」と走っていって交代して掃除していた。当たり前と言えば当たり前だし、親バカちゃんちゃかりんじゃないが、日本へ行き、社会でもまれ、変わったものだのう...と感心してしまった。爆
とにかく、子供に、門下生に、そして社会に期待するのならば、大切なことは、親や大人自身がお手本をみせることだろう。どん なことでもそうだが、子供は親の真似をする。親や大人が「目配り・気配り・心配り」をしている姿を見せることで、子供や周りの人間は、自然とその力を身に付けていくと思いたい。
ゆっくりでもいい。心が伴う行いができる社会になりますように。
今日の一句
さりげなく 日々の訓練 三配り