夏休み明けの9月から、空手の稽古復帰をめざしているが、2022/23年度の稽古は既に終了し夏休みに突入。先日空手仲間のF爺を囲み、彼をサポートしている『チームF爺』と食事に出かけてきた。
8月に85歳になるF爺。9月の初旬、メンバーが戻ってきたら、誕生会をしようね!と言ったら、おいおい泣かれてしまった。なんか引っ掛かって過去の手帳を調べたら、7月19日が亡くなられた奥様の誕生日で、8月3日が彼らの結婚記念日だった。夏は思い出の季節なのだろう。それが、周りは皆山や海、一時帰国…街中も静かになり、寂しさが深まり、更に孤独を感じさせてしまうようだ。
F爺とは毎日電話で話しているが、電話を切る際、彼は「死にたくない。」と言う。「何言ってるの!9月に道場に戻るんだから、死んでられないんだってば!」と私もきついなあ。苦笑
ところで、仏教では人の一生を『仏説無量寿経』の中に「独生独死独去独来」(どくしょうどくしどっこどくらい)とお釈迦様が示しているのだそうだ。
「独りで生まれ、独りで死んでいく。独りでこの世にやって来て、独りでこの世から去っていく。」
寂しい響きだが、これが私たち生きとし生ける者の命の真理なのかもしれない。人生において様々な人や物と連れ添ったとしても、この人生を生きる私達の命は、結局のところ、根本的には孤独なのだと仏様は教えて下さっているのだそうだ。
とはいえ、独りで生まれ、独りで死んでいくが、生きている間は独りでは生きられない。人と人とが支え合って生きているのだ。
ところで、「人」の「間」と書「人間」は一般的に「にんげん」と読むが、「じんかん」とも読む。広辞苑によれば、「じんかん」は、「人の住む世界。世の中。世間。人間界。」いずれにしても、人間同士の関係が重要だ。
父の生存中、頭はしっかりしていたが、体が思うようにならなくなり、その分葛藤も大きかったのだろう。時に母に当たり、感謝の言葉を口に出すこともなく、見ていて耐え切れないものがあった。自分の人生をどう受け入れるか...外野はいろいろ言えるが、やはりその立場にならないとわからないこともある。
ある司祭が、『「感謝」は孤独を打ち砕く矢。孤独によって打ち砕かれた心は、感謝によって孤独を打ち砕く。巡る季節に、周囲の人に、先祖に、また先人たちが残してくれた足跡に、そして命の源である神様に開かれた姿勢が「感謝」である。私たちは一人でいる時にも、一人で生きていることはない。しかしながらこの「有難い」という感覚は、内側から涌き出でるものである限り、その前提としての「気づき」が必要であり、おそらくそれこそが信仰の実り、恵みである。』と仰っていた。
それには、信仰なり大きな力が作用するのではないだろうか?つまり「英知」だ。
精神分析家のエリクソンは英知を、「死そのものに向き合う中での、生そのものに対する聡明かつ超然とした関心」であると言っている。英知とは一般に、すぐれた知恵や深い知性のことを言うが、老賢者の持つものだろう。
信じる者は決して一人(独り)ではない。それは信仰のみならず、家族、友人、人間関係の中で、「信頼」が大切。独りでないのに、孤独を感じるということもあるだろう。信頼できる人が周りにいるだろうか?まずは自分から人を信じてみる事。
独りじゃない。
勇気をもって、身近にいる人を信じてみよう。