この秋から空手の道場はグリーンパス提示が必須だが、2021/22年度のコースが始まった。
この1年半以上稽古が不規則となり、昨年は大会も開けず、道場から離れる者、また新たに入会又はカンバックした者様々だが、モチベーションを高めるためにもやはり大会が必要だ。
通常、秋の大会は「華厳の陣」と称されて来たが、今回は「追儺(ついな)の陣」と名付けられた。
追儺とは、大晦日(旧暦12月30日)に行われる宮中における年中行事だが、鬼(疫鬼や疫神)を払う儀式でもある。イタリア本部道場でもある在ミラノ日本人学校の体育館も改装され、心機一転、疫病退散を祈念する特別大会が行われた。
そして昨年の6月から延期され、敢えてオンライン稽古とオンライン初段審査は受けず、対面稽古まで待ち、ついに初段審査に至る日が来た。
昨年のロックダウンで一時帰国からしばらくイタリアへ戻れなくなってしまう前に既に初段審査で必要な技術の審査は護身術以外は全てパスしていた。護身術は10個あるうち覚えたのは5つだけだったが、夢にまで出てくるようだったし、実際メルカートでスリを捕まえるのにも役立った。笑 瞬間的に大きな声を出せたのも、稽古のお陰かもしれない。
初段審査は大人でも作文提出が必須。テーマは「私にとって空手道とは」だった。いつからか、「私にとって空手道とは?」自問自答で思いついたことを、メモして来た。しかしいざ作文にしようとすると、いろんな葛藤が出てきてスラスラ書けず。手書きで何度も何度も書き直した。そんな綺麗事か?黒帯になって指導をしていくのに、私でいいのか?グダグダその繰り返し。
また49歳で空手を始めただけに、自分のキレやスピード、記憶力は、始めた日から常にピークが下がっていく一方。膝の怪我を始め、高校生の時から、脊柱側彎症とわかっていながら無症状だっただけに、肩の高さを始め平衡感覚が狂っていることを今更実感。なかなか治らない。(私は世の中ずれて見えているのだろうか?)
審査の時期が延びた分、また審査日が近づく分、思い悩む日々だった。いまだにそうだが、作文を提出してしまったら、審査をパスしたら、もう私は、立派にならなくてはいけない、もちろんそんなはずはないのに、そんなプレッシャーに押し潰れそうだった。
型に起承転結をつけるように。見えない敵を倒すように...色々言われるほどわからなくなる。次男にはいろいろ注意され教えてもらった。「わからないの?できないの?どっちなの?」「やってるつもりでもできないからわからないのではないか!」以前は喧嘩になったが、最後は落ち込む一方だった。
審査の8型をシュミレーションで繰り返し、ビデオでも0.25倍で穴の開くほど見てきたが、ここまでくるとただただ平常心を心掛けるしかない。あとは普段通りに、と。
出せたものはもう自分の限界であったと思う。だから悔いはない。審査が終わってから、ずっと一緒に頑張ってきた仲間から綺麗な花束をもらいじわっと来た。やはり一緒に全国大会など常に共に頑張ってきた仲間は同志であり、年齢に関わらず良き理解者だ。彼らに出会えたことは私の人生にとってもかけがえのないものだと思う。
ところで人生初の試割りもした。いわゆる板割りだ。
もうシニアだから板一枚割ればいい、と初めは言われていたが、大きなフラフープの中飛んで、足刀蹴りで割ってみる?と師範。私はサーカスのライオンかい?笑 結局3枚割ることに。過去の初段審査では、何度やっても割れない人も多くいたが、逆に距離をみるためトライアルで手が当たっただけで割れてしまった人もいる。当たり方次第だろうとは言われていたが、なにせぶっつけ本番である。全く未経験、想像外だ。正面を中段前蹴り、後ろは半飛び右足刀蹴り。右に270度回って肘打ちで。右の拳に左手の手のひらを当ててまっすぐ右に引けば、まず割れるだろう、とのことだった。前蹴りは一発で割れたが、右足刀が1度目はただ足が当たっただけだった。親指を下に下げれば、かかとが斜め上にあがるわけでかかとというか足の側面で蹴り上げたら、ぱかっと割れた。あとは、肘打ちだけだ。思い切り打ったら割れたが、痛かった〜。
以前、次男がまだ赤ちゃんの頃、スリングで前に抱きながら歩いていたら、軽い坂道で靴のかかとが滑って転んで左肘を打ち、その後後頭部を打って救急病院に運ばれたことがあった。怪我人はお子さんですか?と聞かれ、いいえ私です、といった時は恥ずかしかったなあ。レントゲンを撮っても肘に異常はなかったが、いまだに冷えるとその部分は痛む。初段審査前は、以前怪我をした左肘に、骨折した左足の親指、そして右膝が疼いた。しかも2週間前に、思いきり回し蹴りで右脇腹が攣ってしまい、治るのに一週間かかるというボロボロ状態だった。どんだけドSなんだ?苦笑
私にとって「空手道」とは、自己研鑽し、自己探求する「道」。いかに自分を客観的に見て、吟味、修正するか、初段に到達はしたが、これからがスタートである。
もし、怪我もせず、パンデミックもなく、つまづきもしなかったら、分かり得ないものもあったと思う。体に痛い部分がある、というのは、ある意味自分の限界を知り、思いあがらないように、謙虚であるように、と釘を刺されているのかもしれない。
今後さらに一心精進し努力していきたい。

