ミラノ国立公文書館 とナポレオン展  | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

芸術の秋。
 
10月16-17日、イタリア環境基金・FAIの「秋の催し」が、イタリア中で行われている。
 
普段、公開されていない文化財が公開されたり、様々な文化的なイベントがあるのだ。
 
今朝ほど偶然近所の軍の兵舎であるカゼルマの前を通りがかると“FAI”と大きく描かれた看板があり一般公開されているようで、数人の列が出来ていた。興味はあったが時間がなかったし、午後から別のFAIのイベントに予約を入れていたから良しとした。
 
それは日本語ガイドによるミラノの中心地ヴィア・セナートにあるミラノ国立公文書館(Archivio di Stato di Milano)見学であった。普段来伊される日本の政治家など著名人に同時通訳をされておられる方がボランティアとして案内されるというから、それは貴重なイベント、どうしても行きたくて予定を調整し出かけた。
 
 
ヴィア・セナートにある旧称パラッツォ・デル・セナート。以前はナヴィリオであったという通りに面し緩やかな曲線が印象的だ。
 
 
建物入り口にあるスペインの芸術家・ミロのブロンズ像“Madre Ubu”。フランスの小説家、アルフレッド・ジャリの戯曲「ユビュ王」に登場する女性に由来する名前なのだそうだが、1975年に造られ、翌年ミラノ市に寄贈された。建物の歴史に比べて、まだまだ歴史の浅いものだ。
 
ところで、1545年にトレント公会議が招集されたが、プロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗宗教改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となったわけだが、1564年にカルロ・ボッロメオ・ミラノ大司教によってミラノ神学校が設立された。その翌年ミラノ北部に移動、ミラノ神学校本部として1930年まで運営されるが、その間にミラノ大司教区に幾つかの神学校が設立され、その一つが現在古文書館で元々はスイス神学院として建てられたのだという。なぜスイスかといえばイタリア語を話すティチーノ出身の学生を招聘した学校でもあったようだ。
 
因みに幾つかあったミラノの神学院は2013年にミラノ郊外のVenegonoへ1箇所としてまとめられた。余談だが、数年前ドウモで行われた新しい司祭の叙階式で我がパロッキアから司祭が誕生するという事で聖歌隊に参加させてもらえ、その練習に神学校へ赴いたが、それはそれは巨大な敷地と荘厳な建物。お城のようであった。
 
 
 中庭が二つ続くが、微妙に初めの庭と後の庭の柱が異なる。

 

また公文書館2階では、”"Nelle sommosse e nelle guerre"(「暴動と戦争の中で」)と題した「ナポレオン展」が開催されていた。

 

今年は、皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)の没後200年を記念する。

 

1796年、ナポレオン、ミラノ入城。その後1814年までの間、フランスの支配下と成る。

 

 当時のミラノの地図。
 
1804年、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世となる。その翌年イタリア王国をつくる。(首都はミラノ)センピオーネ公園にある「平和の門」がパリの凱旋門に似ているのは有名な話。しかし、この門が完成したのは、彼が失脚した後のことだったそうだ。

 直筆サインが書かれている。
 
 活気のあった時代を想像するだけでも興味深い。
 
 
 
こちらはナポレオンの失脚を表現した絵。女神によって戦車から落とされている。ロシアやオーストリア、フランス、イタリアなどが皮肉をもって描かれている。
 
  
 
ナポレオン髪の毛。ナポレオンの死後、彼の側近者がナポレオンの髪の毛を持って逃げていたが、みつかって没収された。実際科学的証拠としてDNA鑑定を依頼し本物であると判明。意外に金髪だったんだ!へんなところで関心してしまった。笑