先日、ミラノの写真家である友人が彼の母校である上智大学ソフィア会の講演会で『内なる声を聴き”撮る”』というテーマをお話しされたことは知っていた。会員でなくても家族や友人も申し込める、という話だったので、ぜひ聞きたいと思いつつ、時差で、平日の日中であったため、残念ながら参加はできなかった。それでもアーカイブが公開されれば、聞くことができるらしいので、今から楽しみにしている。
ところで帰国のたびに通っている実家近く、地元のカトリック教会で、ここ数年知り合いになったオルガニストの方が、ソフィア会の方で、いろいろ企画されておられるのは存じ上げていたのだが、仲間内で講演会「世界を駆けるソフィアンたち」で誰か在外ソフィアンはいないか?という話が出た時、ミラノ在住の友人を思い出し紹介されたという。しかもその方に彼を紹介したのは私だったというから、あれっそうでしたっけ?と思ってしまった。
講演会では、彼は『意味のある偶然』という言葉を使い、心に響いたということだった。
彼とは洗礼準備を一緒にしており、霊的兄弟と信じているが、個人的に彼や彼の作品を通じて知り合った人は、いろいろいるが、確かに単なる偶然とは思えない方々ばかりで、やはりどの方とも『意味のある偶然』であったのかな...などと考えてみた。
そういえば、臨床心理学者の河合隼雄氏も「意味のある偶然」という言葉を使っている。一つ一つの事柄は全て偶然の寄せ集めに過ぎないのだが、不思議に一本の糸によって繋がれているように見えるのだ、と言う。それをカトリックでは「み摂理」と呼ぶのだが。
ところで、今月本来は故郷であるバングラデシュに帰国し司祭になる叙階式を経て、秋から日本へ宣教に出るはずだった神学生のドミニックはこのコロナ禍、特にデルタ株の関係で出発できなくなり、数日前にミラノ郊外で司祭に叙階された。また直接日本へ行くためのヴィザの手続き云々で当面出発出来ないようだ。でもそれもある意味、み摂理なのかもしれない。意味のあること。
そう思うと、毎日は意味のある偶然の積み重ねだ。出会う人、起きる出来事...。
とは言え、事故や事件に巻き込まれて、心や体の傷を負われたり、ましてや命を落とすことだってあるかもしれない。それを意味ある事なのか?と言われたらなんともわからない。
ただ言えることは、「命」は、いろいろな条件が重なった上で偶然に生まれ、そして、「命」は必ず死を迎える。「必ず明日がある(当たり前)」わけではないのに、ついつい「生は必然 死は偶然」だと錯覚してしまう。「まさか自分が」事故に遭う、とか病気になる、とはなかなか思わないものだ。
意味のある偶然、そしてこの命。丁寧に、大切に生きていこう。