タータ日記 〜 その6 無限の可能性 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

シッター先の双子ちゃんは週明けに9ヶ月になる。

 

計画出産で予定日よりも5週間早く生まれてきたそうだが、体重も決して少なくはなく、成長も遅くはない。

 

とはいえ、兄の方はやっと寝返りができるようになったくらいで、いつもうつ伏せでスフィンクス状態。笑 穏やかで笑顔がなんとも言えないが、人の指を食いちぎるのか?と思うほど噛む。もちろん、歯が生えてきてむずがゆいのだろうが、先日は腕を噛まれ、洋服の袖をまくったら歯型がついていた!

 

一方弟の方は、全くじっとしておらず、ターザンのようによく叫ぶ。どんだけエネルギッシュなんだ?見ていて笑いが止まらない。彼は、四つん這いになるが、前にも後ろにも進めずにいるが、多分来週あたり動き出すだろう。今は、両肘で擦りながら前に進む。年がら年中腹っぺらしで、君ははらぺこあおむしかい?と声をかける。

 

自分の子育てで、こんなに余裕を持って毎日笑っていただろうか?と今更思う。

 

この子たちは無限の可能性を秘めているんだなあと常に思う。「人間は」と置き換えても良いかもしれない。

 

幼い子供がどのような能力を持っているか、はっきり目にはみえない。それが「秘めている」ということだろう。能力はどんな子供にも秘められているのは、ヘレン・ケラー女史の例でもよくわかる。目が見えず、耳が聞こえず、話すこともできない三重苦の子供であったが、サリバン先生に出会わなければ、一生涯、部屋の片隅から出られなかったかもしれない。それが、サリバン先生という教育者の懸命な努力によって、人生を生き生きと生きることができたし、苦しみを背負っている人生に対して光明を与えたのだった。

 

過去に何度も書いてるけど、英語のEducation、 イタリア語のEducazioneとは、ラテン語のeducĕreが語源で、意味は「引き出す」。私は、教育はそういうものだと思う。

 

親は、教えずに引き出す。そして本来の「子育て」をする。教師は、「教える」と「育てる」を両立する。
 

見てて思うのは、この時期から子供は好奇心に満ちている。おもちゃではなくても、見るもの見るもの興味を示す。そして触って、口に入れる。好奇心は自発性につながり、それは創造性にもつながる。

 

時に兄弟で取り合いになりここ数日、活発な弟の方が、兄の顔をつかんだり、髪をひっぱる様子を見かけた。どうするのかなあ?と経過を見ていたら、お兄ちゃんの方が、泣き出して、弟がすーっと離れるというパターン。たまに反撃にも出る。さすが、兄弟がいると強くなるものだと思う。

 

好奇心に満ち、いたずらっ子の目を見ているのは非常に楽しい。目がキラキラしている。自発性や創造性の発達には、「いたずら」におおらかに許容することが大事であろう。ある意味、子供に「自由」を与えること。

 

最近、双子ちゃんたちが夜何度も起きては、すぐに寝付いてくれずさすがに、両親は体が持たず、自分たちのベッドに連れてきて川の字になることが多いらしいが、朝出かけていくと、二人ともゾンビ状態。

 

とはいえ、私も昼食後のお昼寝は一人はすんなり寝てくれても、一人がなかなか興奮して寝付かず、長い時間をかけてやっと寝かせたと思うと、すぐに先に寝た方が起きてしまう。また常におやつの準備やら、おやつも両手で一気に二人にあげたりと休む暇もない。

 

それでも、自分の子供に感じた責任感が少し違うから、距離を持って楽しめる。

 

子供は秘められた可能性を持っている存在。子供の能力を伸ばすためには、意欲と思いやりという二つの柱を育てることが大切であろう。

 

そういう意味では、私自身の人格向上のためにも、彼らの存在は非常にありがたく、子供を鏡にしながら、どういう大人であるか努力が必要となる。

 

自分の子育てには一生懸命すぎて,楽しんでいる余裕がなかったし、自分を高めようとすら思えなかった。

 

仕事として、お金も頂いているが、子供達を育てる楽しみを噛みしめている。