父の書類関係を整理していると、たまに面白いものが出てくる。
今回は、いろいろな詩がプリントされたものが出てきた。ほとんどが著名な詩人の方のものであったが, 検索しても出てこない詩があった。想像にすぎないが、高校の同窓会の封筒から出てきたことと、父の高校時代の先生が詩を書かれていたということで、もしかしたらその方のものなのか...???
いのちとは
君はいのちを知っているかい
君のいのちは何だろう
心臓が君のいのちかい でも心臓だけが君のいのちではないだろう
脳みそだけでもない 血液だけでもない 胃だけでもない
それにからだだけで生きているのじゃない
からだを支える栄養を 食べるものからとっている
食べ物は 自然から生み出されてくる すると自然も君のいのちなのだ
世界全体が 君のいのちなのだ 空気も山も 川も
人間が 生きていることを支える全部が 君の 私たちの いのちなのだ
それなのに 人間は それを忘れて...
新型コロナの一件では感染は、欧米が辿ってきた道の通り, ペースさえ違うものの徐々に拡大してきている。ここでどう対処するか、国の決断にもかかってくるとは思うが, 重要なのは一人ひとりの自覚。
やはり命の重さを考えるべきだと思う。また、「どうしたら自分の命を守れるか」だけを考えていると、かえって生きる力が萎えてしまう。「どうしたら大切な人の命を守れるか?」 「苦しむ人をこれ以上増やさないために何ができるか?」そう考える力, 想像力が不可欠だ。
だから、最大限、私たちが出来るということは”自粛”するということ。
『自粛』...自分から進んで、行いや態度を慎むこと。
(『要請』...必要だとして、強く願い求めること。)
イタリアのある市長は暴言を吐きつつも、市民に家にいるよう叫んでいた。日本の首相や都知事が叫ばず,緩やかな言い方をしているのは、パニックを避けるためか?それとも基本的人権の尊重なのか?それゆえに”命令”を出せないのか?それはよくわからない。
ただ、一ついえるのは、やはり『家にいる』こと。
大人もテレワークといってもそうは出来ない職種もあるだろうし、全員が全員適用できるわけではなし。また保障がない限り仕事をしなければ生きていけない、という心配もある。もちろん、我が家とて同様。しかし、そうせざるを得なくなってくるとじたばたしていられなくもなり、逆に肝が据わってくるのかもしれない。
「家で過ごさなければならない」と考えるか、「家で過ごすことができる」と考えるか、それは私たち次第。身近なところを見つめ直し、生活を整え直すチャンスと考えれば、家で過ごす時間も大きな恵みに変わることだろう。
祈りのうちに...強く乗り越えよう。