寛容のパロドクス | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

「日本人は親切だ」、と良く言われるけれど、必ずしも日本人全員が全員、親切ではないと思うし、親切イコール心が広い人、寛容な人か?といえば、うーんと唸りたくなってしまう。

 

日本人は世界的に見れば、多くの人が礼儀正しく映るようだが、帰国中、電車の乗り降りでは、平気で後ろからどん!っと押してきては何も言わずに行く人も多いし、そういう人に限ってイヤフォンをしており外の世界をシャットアウトしているようで、一般常識はないのか?とさえ思ってしまう。

 

イタリア人は、道を聞けば、教えてくれるが、かなり間違った事を教えてくれる人も多い。笑 さすがそれは慣れた。笑 けれど、今回、コロナウイルスの件でここぞとばかりに根底にあった人種差別が表面上に出てきた人も多いように思える。

 

心無い言葉を浴びせられたというミラノ在住の日本人も少なくない。まあ、相手が無知だと思い流した方がいい、と思うけれど、その相手が知っている人だったりしたら、今後の付き合いでもギクシャクしてしまいそうだし、人間としてはそうそう人を心からは赦せはしないだろう。ベールを被っているだけで、「テロリスタが来た!」と同じアパートの住人に言われた、という友人もおり心苦しい。

 

また以前、オラトリオでベールを被ったイスラム教徒の女性を罵っていたイタリア人のおばあさんを止めに入ったら、逆に私が殴られそうになったことがある。道端でもかなり外国人に対し、彼女が文句を言っているのを見かけたことがあるので、今回のコロナウイルスの件でもまた、会えば何か言われるか...と思いつつ彼女にはまだ会っていない。

 

ところで、私の通うイタリア語教室近辺には、なにかコミュニティがあるのか、それともそういった診療所があるのかわからないが、精神疾患の方が多く、授業中に何度もクラスの戸を叩きに来る。もう何年も前から地元スーパーの前で物乞いをしていたおじさんもいるのだが、通る人通る人に「1ユーロある?」「タバコ持ってる?」と聞いているのだ。毎回のことなので、来たー!と言っては皆でクスクス笑っていたけれど、ガラス越しでもよく覗かれているし、ドアをガタガタ引っ張っては「アメリアいる?」と言ってくる。多分、午後そこに来るソーシャルワーカーか誰かなのだろうか?

 

他にも、「ある単語の意味がわからないのだけど〜」と言ってノックしてくる若者もいる。生徒たちは、シャッターを下ろしましょうよ、というけれど、毎回イタリア人の先生たちは笑顔で彼らの相手をする。しかも、ciao tesoro(親しい人にかける言葉だが、テゾーロとは「宝」という意味) 前者のおじさんなんぞ、毎回見かけるたびにタバコを吸っている、ということは必ず誰かがあげているのだろう。しかし、みるみるうちに痩せこけてきて、今や眼だけがぎょろぎょろ状態で、ズボンも落ちてきて片手で持ち上げながらタバコを吸っているのだ。今日なんぞはピッツアを食べていた!あげる人がいるのだろう、と思うと、さすがイタリア人!だと思ってしまう。

 

また、今回は教室へ行くと見知らぬ女性が入っていた。「誰?」小さい声で先生やクラスメートに聞いても、さあ...入り込んで来ちゃったのよ、という。さすがに授業が始まるので、説明し出て行ってもらおうとしたが、「私も勉強するわ」と言いだした。もしや認知症か?皆試験に向けてやっているので、集中しないといけないので...というのと、「じゃあ後ろの方に座っているから邪魔はしないから...」といって出て行こうとしなかった。最終的には出て行ったのだけれど、先生が「ご理解ありがとうございます」というと、にっこりして戻ってきて、先生を抱きしめ両ほほにキスをして行ったのだ。私たちはびっくりし、目が点となったが、それを普通にこなすイタリア人は寛容だな...とさえ思う。

 

人は、寛容と不寛容の間にこそ、人の本質が詰まっているのではないかとさえ思ってしまう。

「もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊される」とオーストリアの哲学者であるカール・ポパーは言った。


ガンジーも言っていたが、寛容は無関心とは違う。寛容であるためには、同じ人間同士でも世界の捉え方は千差万別であり、自分の正しさの限界や自分とは違う正しさがあるのかもしれない。その正しさや価値観がどこを向いているのか...もし、無人島や一人だけの世界だったら、寛容とか不寛容に悩むこともないのだろう。

 

「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」矛盾しているのか、矛盾していないのか...よくわからなくなった。