イエスが誕生した時、目に見えない神様の愛が、私たちの前に姿を現した。イエスの産声、表情、仕草、全てを通して、神様の愛が世界にあふれ出しますように...。
怒濤の12月だった。クリスマスは静かに喜びを持って待ちたい。と思いつつ、待降節に入るや否や急にあれやこれやどれも外せない用事や仕事が重なる。惰性ではないが心身ともに疲労感がつり積もる...。
クリスマスイヴのミサ。お御堂に入るとふと空気が変わる。ひんやりとしていて、それでいて暖房の暖かさが後からじんわり感じて来る。しーんと雪が降っているような静けさ。その中で人間の赤ちゃんとなられた神が来られる喜び。
たとえ耳が聞こえなくなっても、目が見えなくなっても、悪い病気にかかってしまっても、私たちと共にいて下さる神様は近くに来て下さっている。どんな状態があっても喜びを感じる事は出来る。
主の到来は、「喜びを持って来て下さった」、「救って下さった」「神様は私達の間にお生まれになった」事を意味し、だからこそ私達は、毎年こんなに大きなお祝いをするのだ。
ところで、クリスマスの午後、お煎餅と羊羹を持って、養老院におられる日本人シスターを訪ねてきた。「きっとあなたは来てくれるって思ってたの!嬉しいわ!」歩行器に捕まりながら走って来られる。お土産を渡すと、「うわーっ嬉しい!」のけぞりながら両手を叩く。89歳の少女のようだ。笑
いつものようにたわいもない話しに笑いまくる。「沢山日本からお手紙が届いているの!」昨年は代筆を頼まれ返事を書いたものだが、今年は時間をかけてもご自分で書きたいそうだ。それも前向きな目標。最近一人で日本語を話しててね、クリスマスイヴのミサは夜中のはずなのに、夕方だったのよ。「この時間本当にイエズス様はいらっしゃったの?」ってついつい大声で口に出しちゃったら怒られちゃったわ。と舌を出し肩を竦められる。
シスターは、修道院に入られる前は、元々薬剤の研究員でおられた。研究中の薬が爆発し、割れた容器のガラスの破片や薬剤を両手や顔に浴び大怪我をされた。片目は失明され、顔の皮膚も何度も手術されておられる。最近、失明した目から目やにがピタッと止まったの。そして当時(60年以上前)の目の診察の医師との会話が全て蘇って来るのよ。不思議ねーとおっしゃっていた。
帰りがけに次男と合流。ドウモ近辺を散策。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)
自分の身に起きることが計り知れない事であっても、謙虚に受け止める。そんな従順さを教えられる。
クリスマスのプレゼント。クリスマスの恵み。
神様がイエスを通して全てのするべき事、実現できる事を教えて下さる。バンビーノジェスーは、神様ご自身が来て下さったという事。それを心から受け入れる、大事にし、この祝日を周りの人にも伝える事が、クリスマスの務めであろう。
世界中でクリスマスを祝うけれど、その意味、恵みを一杯頂く事が出来ます様に、心を据えて祈りましょう。





