クリスマスの精神 〜 愛を生きる | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

キリストを救世主と認めない宗教間での争いでは考えられないことだが、第一次世界大戦中の1914年12月24日から12月25日にかけて、最前線で対峙していたドイツとイギリスの兵士たちは、一時的に停戦し、クリスマス休戦として、共にクリスマスを祝ったと伝えられている。

 

本来、クリスマスの精神は、赦し、和解、平和だ。

 

ところで、昨年から、ミラノの人種の坩堝と呼ばれるサンシーロ地域では、宗教の融和として、キリスト教徒(その大部分がカトリック)とイスラム教徒が共に祈りをもってクリスマスイベントを催している。

 

キリスト教の聖書には旧約聖書と新約聖書とがあるが、旧約聖書の起源はキリストの時代以前にまでさかのぼり、ユダヤ民族と神との歴史的関係を記録している。つまり、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教はアブラハムの宗教として知られ、アブラハムを通じ共通の起源を持っている。 キリスト教徒とイスラム教徒は、イシュマエルを「アラブ民族の父」、イサクを「ヘブライ民族の父」と見なしているわけだが、 アブラハムとその息子らの物語は、創世記でコーランでも語られている。

 

宗教が違っても、語学学校ではイスラム教徒のクラスメートと創世記について語れるのは非常に面白い。ちなみに、イスラム教徒がイシュマエルをアブラハムの長男として重視するのに対し、キリスト教徒はアブラハムの正妻の子としてイサクを重視しているのが大きな違いだろうか。

 

話は逸れたが、元をたどれば同じ経典だったはずが、神の概念が異なり争う様になってしまった。少なくとも、私たちが日常生活の中で、自己中心性と絶えず闘い、他人と仲良く生きることは必要だ。その一歩として、相手を理解し受け入れること。それが大切だろう。そして、それには時に”痛み”が伴うこともある。

 

先週の日曜日、サンシーロ地区のポポラーレ(低所得者地域)の中心地であるセリヌンテ広場でイベントが行われた。そこには、現在私が通っている語学学校もあり、そこに住んでいないと、その近辺を通る度、ここはどこ?イタリアなの?と思ってしまうことだろう。

 

昨年までボランティアで通っていたオラトリオに来る子達もほとんどがこのポポラーレに住んでいる移民だ。宗教をはじめ、生活レベル、教育レベル、全てが異なる。たとえルールがあっても共生していくには、並々ならぬ忍耐が必要だった。これは、宗教の違いというよりは、家庭の教育の違いが多くにじみ出ており、また親の教育レベルによって、意識もかなり違うように思われる。

 

 実写版(?)プレセピオ

 地元教会の司祭とイスラム教の指導者•イマムによる祈り。

 

愛を生きる

 

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリ2:3-4)

 

愛する人は、相手を敬い、相手のことを少しでも多く知りたい、相手を喜ばせたいと願う。全ての人を愛せますように。

 

https://www.iodonna.it/attualita/costume-e-societa/2019/12/20/a-san-siro-la-preghiera-di-natale-del-parroco-e-dellimam/?fbclid=IwAR2A-ibJ3EDymTBVZJpWRBldK5LBmjM5482mgLhfPBw5-XDwBrGsppERYVo