今日は聖木曜日(復活祭前の聖なる3日間のうちの木曜日)だった。
日本では聖香油のミサは水曜日に行われるようだが、ミラノでは毎年聖木曜日の午前9時半から、ドウモで行われる。一度参列したことがあるが、数時間かなり長いものだった。昼過ぎに友人がFBのタイムラインで、「どうしたん?ドウモの入場待ちの列。こんな長いの初めて見た」とつぶやいていたが、この聖香油のミサは一般ツーリストは入場が規制され入れないため、お昼になりどっと列になったのだろう。
ところで、ミラノ教区には修道院などもふくめ1000もの教会がある。その司教たちが集まるのだからすごい数だ。祝福された油が教区全部の教会へ配られる。そしてこれからこの一年にこの油を使って、洗礼や病者の塗油に使われる。病者の塗油とは、病気(事故、老衰なども含め)で命が危うくなった信者を助け強めるしるし。
また、余談だが、キリストとは「香油を注がれた人」という意味のギリシャ語ハリストス(Χριστός)が語源であり、もとはヘブライ語משיח(マーシアハ)あるいはメシア(アラビア語ではمسيح マシー)のギリシャ語訳。英語Christには「救世主」という意味も含まれる。
今日のヴァチカンの聖香油のごミサでは、パパ様は、今日の福音書の中で貧しい人々や、病者、疎外された人々が、イエスから癒しを施されることで、人間としてのアイデンティティー、尊厳を取り戻したことを思い起こされた。
またパパ様は、主の癒しによって立ち上がり元気を得た人々、群衆の中で具体的な顔を持ったこれら一人ひとりの存在を、私達も忘れてはならないと、司祭らに呼びかけられた。そして、私達は人に「塗油するために、塗油された」者であり、これらの貧しい人々こそが、聖霊の私達の心への塗油を完全で真なるものとしてくれる、と話された。
「人に塗油することで、自分も新たに塗油される」
「私達は瓶に入った油の供給者ではなく、自分という存在を、また自分の召命と心を分け与えながら、人に油塗る者である」
「私達は、人々の傷や、罪、苦しみに触れ、自ら手を汚しながら油を塗り、人々の信仰や、希望、忠実さ、寛大さに触れ、自分もその香りを受けながら油を塗るのである」
そして、夜には、地元のパロッキアでは(主が足を洗う)『洗足式』が行われた。司祭たちがカテキズモをしている子供達の足を洗った。
この日、イスラエル人は特別な食事で過ぎ越しの祭りを祝ったという。
イエスは亡くなられる前の晩、エルサレムの友人の家で12人の弟子と一緒に食事をなさった。これが、あの「最後の晩餐」。
弟子達が食卓に着いたとき、イエスはたらいに水を取り、弟子達の足を洗い、布でその足を拭く。・・・弟子達はどんなに驚き、抵抗したことだろう。 イエスの弟子達に対する実践教育である。そこには、仕え合う大切さと愛し合う大切さがある。人々に対し謙遜な心をもって人々に奉仕をしなければならないという「愛の模範」。 指導的立場にある人こそ、隣人愛のおきての実践、周りの人を思いやる心、人に仕える心を持たなくてはならないだろう。
互いに愛し合いなさい。
私があなた方を愛したように。
こちらは、司祭(主)が12人の子供達(弟子)の足を洗っている間に歌った聖歌。
"io vi do un grande esempio"
https://www.youtube.com/watch?v=lFk0JxT9rFY&list=RDiTDeqy_FCjI&index=9
私があなた方に示す模範、という意味の曲だ。
日々の生活の中で、この神の愛といつくしみの模範を思い起こし、従わなければならない。
帰りがけ美しい満月を見つけ、自転車を止めて写真を撮ってみた。
冒頭の画像はミサの終わりに「キリストの体」の象徴として頂いたパン。

