「親切」と「お節介」ってつくづく紙一重だな、と思うことがある。
困っている人がいると、本能的に走ってしまうのだけれど、自分がどう思われたい、とはさらさら思っていないし、人に悪く言われようと、私自身が見返りを求めていないのだから、それは構わないと思う。けれど、もし相手に対し、迷惑であればそれはするべきことではないし、どこまで手を出すべきかな...と判断に迷うことがある。
どんな苦難も人生の「恵み」と「糧」になるのだろうが、そうそう受け入れることは簡単ではない。けれど、人は苦労があるから、そこから学ぼうとするし、苦難に直面することでその壁を乗り越えようとして成長する力を持っている。それを先手を打ってあれこれ余計なお節介を焼けば、それはみすみす相手が学ぶ機会を奪ってしまうことなのかもしれない。
また、もちろん、助けを求めたくても、できない人もいれば、ある領域は踏み込まれたくない人もいるだろう。それは相手を尊重しなければならないこと。
すでにお亡くなりになられたある方は、数年前にご主人を亡くされたが、その前から彼女のまわりの多くのお友達が彼らをお手伝いをしていたようだ。ただ、独り身になり、健康のことも考え、どうしても一人暮らしは無理、となり施設へ入られる際の引越しもまわりの日本人がお手伝いをしたそうだが、精神的に疲れていたその方は、時に、友人に文句をいったり激怒することも多々あったようで、徐々に離れてしまう人も多かったようだ。
十数年前、私もまだ若かったので、彼女にあることで強い口調で注意され、それからちょっと距離を置いていたのだが、施設入院中の最後の数ヶ月間、ただ話し相手に出かけていた。私も多少は大人になったし、その方もだいぶ丸くなられ、また死期を意識されておられたのか、私には非常に優しかった。葬儀も多くの日本人のお友達がいらしており、それだけでも救いだったと思う。
「隣人愛」というと、キリスト教の専売特許のように聞こえてしまいがちだが(苦笑)隣人愛とは「自己愛」の対極語であろう。どこまでも相手の立場で考え、高みで見守り、辛抱強くあることが「隣人愛」。「お節介」はある意味「自己愛」なのかもしれない。視点や価値観が全て「自分」にあるから。
しかし、親切を受ける人の心、そして、相手の気持ちを受け取る謙虚さ、また、相手の好意に対する礼儀、バツの悪さなどに気をくばるのも、立派な「親切」。
そして、相手の善意のくい違いに対して、いつも理解と許しの心を準備しておく寛容な心を持っておきたいものだ。
