体の痛み 心の痛み | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

両親にあそこが痛い、ここが痛い、と帰国のたびに聞かされて、年取るのは嫌だな...と思っていたが、最近自分もどこかしらが常に痛い。嫌だわ、もう歳なの?歳なのか、体を駆使しすぎているのか...

それでも、あまりにひどい蕁麻疹にあい、痛みは我慢できても、痒みは我慢できない!と思っこともある。いずれにしても、その辛さに「どうして早く痛み(痒み)治まらないのか‥‥」と思うものだ。

しかし、もしかすると人間にとって痛みは時として必要であることが分かる。「痛み」は、私達の体の防御装置であり、生命を維持して行くために必要不可欠であるものと理解することもできる。

ある意味「医療は痛みに始まり、痛みに終わる」といっても過言ではないだろう。病院へ来る人たちは、いろいろな痛みを持ってやってくる。医者は患者の痛みの訴えを聞きながら、どこがどう悪いのか見極めていく。その痛みは、私たちの体の中で起きている何か異常に対する警報装置の役目をしているのだ。

今日から膝と両手首の治療が始まった。一時期ものすごく痛くて、藁にもすがる思いで病院の戸を叩いたが、しばらくしたら落ち着いてきたので、お金も時間もかかるし、やめておこうかな...と思っていたが、この寒さや湿気によって波があるので、やはり行くことにした。

今回は超音波のテラピーだ。手首に至ってはシンクに貯めたぬるま湯の中に機材をいれてそこに手をいれて20分。本当に効くのかな...。それにしても、半プライベートでもかなりの人が治療に来ている。プライベートの病院でもいつも患者が溢れており繁盛しているわ...へんに感心してしまう。

冗談はさておき、痛みというのは、健康を維持する上で不可欠であるばかりでなく、時に人格形成においてもきわめて重要かもしれない。

なぜならば「痛み」を知らない者は他人の痛みも知ることができないし、思いやりに欠けた人間になりがちだろう。かと思えば自分の痛みや辛さだけを主張する人もいれば、痛みを経験しているからこそ、甘えてはいけないと、自分に厳しく、他人へも厳しい人もいるかもしれない。結局各自の価値観によるのか?

ところで、昨年一人で帰国し、父の通院に付き添ったが、痛みや病状を訴えてもコンピューターのスクリーンを見るだけで、患者の顔さえ見ようとしないドクターもいる。そんな痛み、痛みのうちにはいらない、というようなぞんざいな態度だったり、どうも上から目線で、もう少し優しい言葉かけられないのだろうか?と思ったものだ。

悩める患者と共に痛みを担いつつ、治療する医者になれないのだろうか。常に患者の側に立って、患者の側から見る(診る)医者になれないのだろうか。医者でありながら、患者の側から物事を見ることが出来ないドクターの多さに失望してしまう。

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」(第2コリント12.7)

このとげの目的はパウロが高ぶることがないためだったという。自分が高慢になり、自らを優れた者と思ってしまうことがないように、という戒めだ。

 

病気や体の痛み、不自由さ、人に言わなくても意外に誰もが持っているもの。痛みの「根本」に対応しない限りはストレスや痛みから解放されることはないだろう。

 

自分との付き合い方が重要だ。基本私は薬は飲まないが、その症状を抑える薬、というのは根本的な解決策につながるのだろうか?と思うからだ。心の痛みも同じ。生活習慣や考え方などを見直さないといけない。そして、大切なのは「愛」に出会うこと。男女の愛だけに限らず、心と心の触れ合いには愛がある。

 

「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。私が来たのは、罪人を招くためである。」とキリストは言ったが、まさに「私があなた達を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。これが一番なんだろうなあ。