月の心 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今日は満月。

 

友人に月光浴を勧められた。月光浴は浄化効果もあり、月光浴をしながら深呼吸するだけでもいいというので、夜バルコニーに出てみた。

 

 

 

 

古代の昔から、月光浴は最高の美人薬だったといい、あのクレヲパトラも、湯浴みのあと全身に薬草と香油を塗り月の下でリラックスしたのだそう!

 

ところで、武道用語に「月の心」というのがあることを知った。

 

勝負に際し、自分は天上の月のような心となって、相手を一体に見下す。月は中央に懸かって山を照らし、谷を照らし、野を、家を、草木を、そして人を照らす。月は自分に向かうものはすべて、これ万物を照らす。そのように我々は、相手に対してその形をことごとく照らす心を、持ってあたらなければならない。窓を開けるや否や、室内に月の光が射すように、相手に隙があれば、瞬時の闇もおかず、直ちに攻め込む。仮初めにも疑いの心を起こし攻めおこたることがあってはならない。月が曇れば、地上を照らすことはできない。我々に邪念妄想があると、相手の実相が解らず、従って隙があっても責めることが不可能になる。また月がかけゆく様に、我々の心も欠ける処ががあると、光が薄くなりよく物事が解らなくなる。ゆえに何時でも煌々たる満月が中央に輝く様に、心を養い冴えた技で相手に対せる様に日々の稽古をすべきである。常に真如の月を我が心とせよという教えである。

 

ところで、空手は、明治初頭の頃の沖縄では手(ティー)もしくは唐手(トゥーディー、トーディー)と呼ばれていたが、考えてみれば、もともとは人目につかないよう夜に、場所も人里離れたところで教えられていたという。ということは、月の光をもって相手を見極めることも重要だったのだろう、と想像する。

 

極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし by上杉謙信

 

(意味)私の死後、私は極楽、地獄に行くのかはわからないが、どちらに行くことになっても今の私の心境は、雲のかかっていない明月のように一片の曇りもなく、晴れやかである。

 

雲ひとつない青空も好きだが、雲ひとつない月の光も好き。心が澄んだ気になれるから。苦笑 人間は皆生まれた時は、心が澄んでいたはずなのに...

 

ちなみに6月の満月の予定は28日。7月は28日。月光浴は、満月の日を含め、前後2・3日、月の光を普通に浴びればよいそう!