姑は私が次男を妊娠中に亡くなった。享年68歳。まだまだ若すぎるし。生きていれば、私の父と同い年の82歳であった。
50歳代後半に、脳梗塞で倒れ、糖尿病が発覚。それからは糖尿病との闘いで、最後は臓器不全だった。夫は長男だったが、5年の駐在期間を終えてもイタリアに残り、他の兄弟たちも我が家と同じくらいのまだ手のかかる子供たちを抱え、そうそう姑に寄り添う時間も余裕もなかったのだが、葬儀のお説教で、お坊さんは「生きることを諦めるには早すぎる」と言ったような言葉を口にした記憶がある。
もちろん、生きたくても生きられない、勝てない病もまだまだあることだと思う。それでも「生きる」希望、「生きたい」という気持ちを持つ、というのは、大きく身体に左右してくるのではないだろうか。
ところで、イタリアも高齢化が進んでおり、近所の老夫婦は毎年徐々にご主人に先立たれ、未亡人になられることの多いこと!それでも人によって、<精神的>元気さが全く違う。
みなさん70-80代で、子供がいない人もいれば、いても私よりも年上だったり、独身だったり、割に親子との距離間のある人も多い。「いかがですか?」と声をかけても,悲しみや苦しみの言葉として”male,male..."、”triste...”と発する人もいれば、「今日は映画に行っていたの。」「フランス語を勉強してきたわ。」「友達と海の家に行ってきたの...」と明るく話してくださる方もおられる。確かに、実際、一人家に帰れば精神的にどうなのかは想像もできない。けれど、やはり明るい方の方が、着る服の色も明るく、身なりもきちっとしていらっしゃる。強いて言えば、生きる「力」の強さだろうか?
ここのところ、ある身寄りのない日本人のご老人を老人ホームに尋ねているが、もともとはとてもエネルギッシュな方だったけれど、さすがに体が言うことを聞かなくなると、こもりがちになるのは、両親の話しを聞きながらもよくわかる。私は若い頃はじっとしてられなかったのよ。こんなになるなんて信じられない。何度も聞かされるが、確かにそうなのだろう。そして十数年後、下手したら数年後、自分でも同じことを言っているかもしれない。
見ていて思うのは、やはり体調によって気分は変わるようだ。そして周りをとりまく環境によっても同じ。彼女の同じ階の方々はほとんどが車椅子で、話せない方々も多い。そういう状況で、希望を持って生きてください!などとはそう簡単に口には出せない。
希望は,困難な状況に対処する内的な力として働き,生きる意味を促進し,特にご高齢の方々は希望に向かって進むプロセスを通して困難や危機を乗り越えることができるといわれている。でも、もし家族が近くにいれば、話は違うかもしれないが、孤独を感じている方に「希望」という言葉は時に、酷なのではないかと感じた。
であれば、今までの人生を通し,よりよく生きたと自身の老いに対する肯定的な意識は,生きる希望を高め,Quality of lifeを支えることができるのではないか。
以前も書いたが、「生きている」と「生きてい(ゆ)く」とは一文字違いだけれど、意味は全く異なる。一人の人間が「生きていく」ということは、その人の生命力を必要とし、他人からの「愛」や「信頼」が活力になる。だから、孤独の方には、話を聞き頷いてあげたり、一緒に何かをする、それだけでも心の安心になるのではないか?と思うのだ。
初めてホームを訪ねた頃は、ご自分の葬儀やあとどれくらい生きられるのか?そういったことだけを聞かされていたが、最近は「元気?」「今なにしてるの」とお電話をいただくようになった。声に張りがあると私も嬉しい。
最近、上記の方とは別の未亡人の方にお会いした。何事にも感謝をされておる姿に感動し、見習わないといけないと思った。
人間は、晩年になると死を意識する事だろう。けれど、いきなりやってくる場合は、その意識や覚悟さえないかもしれない。この3月に還暦を迎えたばかりの友人が突然逝ってしまった。突然死、ということで警察が介入し、司法解剖が行われ病死の結果が出てご遺体が戻られたという。本当に言葉にならない。
『今日あなたが無駄に過ごした一日は、昨日死んだ人がどうしても生きたかった一日である』
人生の中で無駄なことなど1つもないと思う。けれど、自分が無駄だと”あきらめてしまう”時、それは本当に無駄になってしまうのかもしれない。
一日一日を諦めないで、人に優しく、そして丁寧に生きたいもの。