生きるということ | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

最近訃報が相次いで入る。

 

もうかれこれ10年。ネットで知り合い、実際何度も会っており、イタリアにも家族で来てくれた友人がいた。昨年、私の帰国中、彼女の家の近くで空手の稽古があったので、帰りにお茶しましょう!といって、グタグタビールを飲んだり、最近もくだらないチャットで笑ったばかりだったのに、ご主人からの訃報のメッセージが入った時は、目を疑った。何で?

 

『死』はいつか、必ずやってくる。たとえ覚悟をしていたとしても、また突然であることもあり、年齢にかかわらず、その事実は心に穴を開ける。特に愛する人との死別は人生にとって一番つらいことだと思う。

 

ところで、最近よく会いに行っている80歳を過ぎた日本人のご婦人がいらっしゃる。50年近く前に息子さんを亡くされ、ご主人も数年前に他界。今では思うように動けなくなり、原因不明の出血があちこちから起きているという。私はもう逝くよ。もういいよ、十分生きたから、とおっしゃる。

 

どんな希望の言葉をかけたらいいだろう?と思いつつ、何もできずただただ話を聞き、また来ますよ、といって別れる。

 

人は「出会い」で愛情(恋愛関係に限らず)が芽生え、共感することで関係性は深まる。愛情が深まり、互いに共感するということは、心の支えにもなり、また別れがたい関係性も生まれる。

 

...神は人々とともに住まわれ、人々は神の民となる。

神ご自身、人々とともにおられ、人々の神となり、

神は人々の目から涙をことごとくぬぐい去ってくださる。

もはや死はなく、もはや悲しみも、嘆きも、苦しみもない。

先にあったものが過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録 21:4)

 

死は決して全ての終わりではない。次の新しい世界への第一歩。

 

カトリックでは、死後に天国で新しい生命にあずかり、愛する人たちと再会できるという根源的な希望がある。これは信仰の根底を支える確信に満ちたもの。ちなみに上記の亡くなった友人もカトリック信者だった。

 

肉体の死は悲しい。けれど、亡くなった人の死を悲しむのではななく、末長くその方の声や顔、言葉などを思い出し、心の中に活かし続け、思う気持ちで人の心の中で永遠に活き続けて欲しいもの。それが心の支えとなり、慰めにもなる。

 

人は「生」を受けてから必ず、誰もが「死」に向かっているわけだが、毎日を「悔い」なく生きたい。それが今、できること。今この瞬間を精一杯生きる...それが私たちの使命だと思う。