夏休みの宿題 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

日本や在ミラノの日本人学校は、あと数日で始業となる。

 

とはいえ、イタリアの現地校は12日から。なのであと丸丸2週間ある。我が家の愚息らは、今頃、「学校いつからだっけ?」と言っているくらいで、やっとこさ、いまだこなせていない宿題の山に焦り始めた次第。(いや、焦った様子には見えない!)

 

一応、宿題は出るが、担任がやったかどうかチェックはしないし、読書の課題はあっても、感想文を書くわけでもなく、義務じゃないから...と子供たちもへっちゃら。担任も児童生徒も本当にやる気あるのかしら?

 

逆に、日本語の補習校の宿題はびっちり出る。今でこそ、我が家では補習校に通っているのは、高等部3年生の長男だけだが、読書のために、本を買った割に、読んだ様子なし。夏休みの宿題である作文プラスアルファ1学期からかけていなかった課題の作文、そして秋までの分、5本くらい?をまとめてしまえ!と言ったけれど、書いたのかどうか...

 

過去の読書感想文はある意味、親の宿題だった。と言っても、私は書いたりしない。本人たちに本を読ませ、どう感じたか?箇条書きにメモを書かせ、それをまたいろんな角度から質問攻めにし、どう感じたか、自分だったらどうしたいと思ったか?などと内容を膨らませ、膨らませ、文字数を増やさせる。

 

私は子供の頃から、日記を書いたり、読書ノートをつけたり、メモ魔だったので、テーマをもらうと、ちゃちゃちゃと書いてしまうタイプだったが、なぜ子供たちはこんなに書くことが苦手なのだろう?と不思議でたまらない。

 

ところで、最近ネットで、「読書感想文」や「自由研究」のような夏休みの宿題がネット上のフリーマケットサービスの「メルカリ」で販売されていると聞き、耳を疑った。

 

 

教育ってなに? 思わず言いたくなる。何度も書いてるけど、英語のEducation, イタリア語のEducazioneは、ラテン語のeducereが語源で、意味は「引き出す」。私は、教育はそういうものだと思う。


教科の好き嫌いは個人の好みにもよる。けれど「学ぶことの楽しさ」を伝えられていないから、こういうことになるのではないだろうか?

 

かと言って、私は子供たちのイタリア語の宿題は見たことがない。というよりも見られないから、中途半端に手は出さない。だからといって、というわけではないが、子供ができないからと言って、親が宿題を買って渡すというのは、倫理教育上どうなのだろう?と思う。未来の日本を担うのは彼ら。彼らのやるべきことを親が、お金を出して与えるってどうよ!

 

 とは言いつつ、空手の夏休みの宿題に頭を抱えている。今年の空手の夏休みの宿題は、「情報編集能力」として、テーマは自由だが、自分なりのフィルター(自分の世界観、自分の価値観)を通し、再編集し、アウトプットさせながら、新聞を作るというもの。

 

周りの意見にただただ同調するのではなく、いろいろな物事に対し、自分なりの疑問、考えを持つことが大切であり、その能力を身につけるために、「新聞」を作ろうというもの。


愚息らがやるとは思えず。私は、個人的に与えられたミッションは遂行しないと気が済まない。とは言え、今回はレベルが高いんだな。これは、下手したら昇級、昇段試験より難しいかもしれぬ。


さあ、困った、困った。子供の頃は、夏休み前にフライングしても早く課題を終わらせたいタイプだった。が、今じゃぎりぎり...  最後の最後、哀れなあがきを試みている...。